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 放課後、いつひが向かったのは空手部の活動場所である武道場だ。重光も一応誘ったが「絶対つまらん」と拒否されてしまった。
 正面の入り口は無視して脇に入り、建物の横に配置してある窓から中を覗く。
(あ、いたいた)
 空手に関して門外漢のいつひでも阪崇仁の動きが他の部員と違うことは一目で分かった。しなやかで美しい。暫し崇仁の動きに見惚れた後、いつひは再び視線を武道場全体に巡らせた。空手部は武道場の半面を使っていて、部員はざっと数えたところ十五人程度。もう半面を使用しているのは柔道部のようだ、こちらも部員数は同じくらい──そんなことを頭に入れながら忙しなく瞳を動かしていると、目に入ったのは赤髪の長身男子。道着姿ではなく、制服にロングカーディガンの彼は生徒会長である光汰に間違いなかった。
 何だか、楽しげな匂いがする。
 僅かに口元を緩めたいつひは窓から覗くのをやめ、光汰の元へ向かった。

 派手なパーカー姿の生徒が平然と武道場に入ってくるのに気付いた部員の中には怪訝な視線をぶつけてくる者もいたが、いつひはそんなことを気にする人間ではない。一直線に光汰の元へ小走りで駆け寄る。
「ん? 賀川じゃないか。中休みぶりだな」
 近づいてくるいつひに気付いた光汰は大きく瞬きを一度すると軽く手を上げて挨拶を寄越した。いつひもそれに手を挙げて返す。朗らかな表情で光汰の横にちょこんと並んだいつひは横目で彼を見上げつつ控えめな声で尋ねた。
「羽澄くんももしかして阪くん絡み?」
「……驚いた。賀川は何でもお見通しだな」
「視線が阪くん追ってたもん」
 当然とでも言った調子でいつひは答える。
「『も』ということは、賀川も阪に用があるのかい?」
「そだよ。昼に変な感じの阪くん見ちゃったから気になって」
 いつひは武道場をさらりと見渡す。光汰と自分以外に崇仁を注目して見ている人間はいなさそうだった。
「羽澄くんは何で?」
 阪に視線を戻したいつひは問う。
「……相談を受けてな。阪の様子がおかしいから様子を見てほしい、と」
「さっすが生徒会長様。龍行のなんでも相談係もしてるもんね」
「この学校に通っている生徒たちが笑顔になれるなら、俺に出来ることは何でもするさ」
 そう言ってのける光汰の表情は清々しく、輝いていて、いつひは思わず目を細めてしまった。存在が光っているような人だな、などと思う。ゲームじゃないけどきっと光属性だ。となると多分武藤くんは闇属性なのかな、でも武藤くんって闇っぽくないし、意外に明るいところあるし、素直だし──。
 目の前の光景がひどく単調で、思考が好き勝手暴走してしまった。部活動が始まってすぐだから基礎練の時間なのだろう。早く乱取りでも始めてくれないかな、そろそろ立ってるの疲れて来ちゃった。といつひはどこかもたれかかれるところがないか探した。手っ取り早いのは壁だと思ったが、近くの壁際には荷物やら用具やらがたくさん並べられていて難しそうだ。そわそわし始めたいつひを見かねたのか、光汰が「俺にもたれるかい?」と声をかける。
「流石にそれは遠慮するよぉ──、あ。組手っぽいの始まった」
 いつひはピンと背筋を伸ばす。光汰も視線を前に戻した。型が決まっているのだろう、順番に攻防を繰り返している。攻撃と言っても相手に触れる程度だ。
「やっぱり阪くんって一人レベルが違う気がする」
「賀川は格闘技にも通じているのか。さすがだな」
「今のは空手全然分かんないボクでも分かるって話」
 皮肉を言われているのかと疑うが光汰としては純粋な褒め言葉なのだ。いつひはため息混じりに返した。
「俺は同じ一年の上春うえはるもなかなか見どころがあると思うな」
 道着には大きく苗字が刺繍されている。いつひは「上春」を探した。崇仁の奥で組手をしている生徒だ。いつひは「んー、まあ阪くんほどではないけどいい感じなんじゃない?」と何とも上から目線の評を返した。
 組手に飽きてきたいつひが再び姿勢を崩し、視線を柔道部に送り始めた頃だった。空気を切り裂くような鋭い打撃音が武道場に響き渡った。いつひは待ってましたとばかりに勢いよく顔を空手部へ向け直した。ミット打ちが始まったのだ。
「空手感出てきたね!」
 その場で空手っぽく拳を突き出すいつひ。光汰は僅かに眉を下げて笑む。
 一際鋭い音が響いたかと思うと、小さな慌てる声がして部員の一人が尻餅をついていた。転けたのは阪と組んでいた部員だった。阪は表情を変えずにミット側の彼に手を差し伸べていた。部員は気まずそうにその手を取り、起き上がる。
「普段は笑顔が多いと思っていたが、こと部活となると人が変わったように真剣になるんだな。賀川がさっき言っていた『変な』というのは具体的にはどういった様子だい?」
「今それを掘り下げてくるんだ。ボクが見たのは……」
 いつひはここで言葉を止める。今にも死にそうな雰囲気だった、なんてこんな衆目のある、それも崇仁の関係者ばかりがいるこの場で言えるはずもない。一旦口を閉じたいつひに光汰は不思議そうな顔で瞬きをした。
「後でいいかな」
 いつひの確認に、光汰は静かに頷いた。武道場には鋭い音が響き続けている。今のところ崇仁におかしな様子は微塵も見られない。真剣な表情でしかし活き活きと活動している崇仁を見ていると昼休みの彼は幻だったのかといつひは自分を疑ってしまいそうになった。

 ◆◆

 つまらん。
 空手部の様子を見てくると言ういつひに付き合ってもつまらないからと断ったものの、特に予定もない重光は校内を徘徊していた。吹奏楽部のロングトーンが聞こえ、校舎外周ランニング中の運動部の掛け声も時折耳に入る。いつひの用事が早く済むなら校内で待ってもいい思っていたが、雑音で溢れる放課後の校舎はやはり鬱陶しい。暇潰しになるようなものでも落ちていれば気が紛れるのに、などと考えていると進行方向上から諍う声が聞こえてきた。
「おっ」
 重光から楽しげな声が漏れる。喧嘩の仲裁は重光の得意分野だ。

 透明化でもした魔女が乗っているかのように、ひとりでに宙に浮かんだ箒。それは一気に加速すると廊下の窓際で箒を睨み据えている二年生飯森洋平の元へ突進する。高速といえども動きは直線的。洋平に見切られた箒は窓ガラスを貫通し、穂の部分でつっかえて止まった。穴の周囲にほとんどヒビが入っていないことから見るに、直撃する場所が悪ければ悲惨な結果になっていただろう。
「殺す気か」
 洋平は低い声で目の前の星憑に問いかける。箒を異能で操作していた星憑、郷原直哉ごうはらなおやは唇だけで薄く笑うと、立てた人差し指の先を軽く動かした。すると窓ガラスに突き刺さっていた箒の軸がぐぐ、と力を溜めるように下側へ反ると逆噴射ロケットエンジンよろしく飛び出した。衝撃で窓ガラスはバラバラに飛び散る。洋平は横に飛び退く。直哉はその動きを読み切っていたように洋平を追いかけるように指を動かす。すると箒とガラス片は直哉の指の軌跡の通りに洋平を追う。洋平は舌打ちをした。些細な言い争いから喧嘩に発展してしまったが、直哉の異能と自分の異能との相性が悪いことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。洋平の異能は身体の一部を硬化させるもの。最大で表皮全体の五割を硬化させられるが、基本的に洋平は硬化させた拳で対象を破壊することを主な使い方としていた。
 が、直哉の能力は分かりやすく言えば「サイコキネシス」だった。生命以外の物体を手を触れることなく操作することが可能らしい。そして今、洋平は直哉の異能に邪魔をされ、直哉に近づくことすら出来ないでいた。となると文字通り手も足も出せず、俄然不利である。
「おい、何やってんだよテメェら」
 ガラス片の猛襲をなんとか裂傷だけで済ませた洋平と追撃を加えようとしていた直哉の間に割って入ったのは彼らと同じ二年生、湊叶の一喝だった。決して大きな声ではないが、妙な迫力のある声に二人は動きを止めて湊叶に視線をやった。
 短い眉を機嫌の悪そうに寄せた湊叶は二人を順に睥睨する。一瞬怯んでしまった洋平と直哉だったが、廊下で周りのことなど気にせず喧嘩をおっ始める人間である、二人してすぐに湊叶を睨み返した。
おんもでやれってんだ」
 呆れたようにため息を吐いた湊叶は往来の方角を指す。彼らがそれに素直に従い、出ていくなんて展開は当然起こることもなく、それどころか洋平と直哉はお互い目配せし合うと湊叶に敵意の矛先を揃えた。邪魔をしてくる第三者は共通の敵という認識のようだ。湊叶は呆れたように小さく嘆息するものの、想定内とでも言いたげな態度で彼らを迎える。洋平が威嚇するように硬化させた拳で廊下の壁を殴ると、壁面が抉れ、破片がぼろぼろと落ちた。
「相手ならしてやっから外に出ろって──」
 再び湊叶がため息交じりで自身の後方を親指で指し示すと、まず洋平がギョッとしたように大きく目を瞬かせた。次に直哉も半眼だったその目を大きく見開くのと湊叶が怪訝そうに眉を顰めるのが同時。そして、一秒後に湊叶と二人の間に飛び込んできたのは大きな影、重光だった。
「学校ん中で暴れる悪い子ら見っけ〜!」
 床をだん、と鳴らして着地した重光は瞳を爛々と輝かせ、大好きなおもちゃを目の前にした子どものような表情で言う。
 こいつは、関わってはいけないやつだ。
 三人の本能が脳内でけたたましいサイレンを鳴らした。
「窓割った奴どれ?」
 重光の問いに素早く答えたのは洋平であった。彼の指先が示すのは直哉。人は得体の知れない化け物を目の前にしたとき、保身に走ってしまうものだとここでまた証明された。青ざめた直哉はしかし、先手必勝とばかりに重光に向けて箒を超高速で撃ち出す。至近距離から、しかも重光にとっては完全に不意打ちとなる方向から放たれた箒に対応できるはずがない──、常人なら。
 べちん。間抜けな音は直哉の自信をいとも容易く壊す。箒を軽く叩き落とした重光は直哉の顔に大きな掌を伸ばし、直哉は大した抵抗もできないまま顔を鷲掴みにされた。
「いっ……!?」
 顔を五本の指でぎりぎりと締められながらゆっくりと持ち上げられる。直哉は必死にもがいて抵抗するも、重光はまるで幼児の遊びを見守るようにその様子を微笑ましそうに眺めている。直哉が自身の頭を掴む腕に爪を立て、血が薄っすらと滲んだのを見た重光は僅かに眉を曇らせると、瞬間直哉を床に叩きつけた。鈍い音。あっさりと直哉の意識が沈む。ゆらりと振り返りざま、今まさに背後から最大硬化させた額で頭突を仕掛けんとしていた洋平に裏拳を見舞う。ぱきりとどこか小気味いい音がして、白目をむいた洋平も床に沈んだ。
「結構石頭だったなこいつ」
 喧嘩の仲裁を手早く終わらせた重光は、洋平の額の皮膚がぱっくり割れているさまを見下ろす。彼の額を割った重光の手の甲は少し赤みを帯びていたがその程度だ。湊叶は言葉も出ない様子で立ち尽くすしかなかった。やはり重光は格が違う。同じ種類の生物かどうかも怪しく思えてくる。
「あ、せんぱい」
 やっと湊叶の存在に気が付いた重光が明るい笑顔を向ける。湊叶は「……よお」と力なく応えた。
「俺めっちゃいい子だったよな? 見てたんだろ? 喧嘩して校内備品を破壊する不届き者を成敗してやったんだからな」
 重光は得意げに言い募り、呆れ返った表情の湊叶に対して「な?」と圧力をかける。重光の厄介かつ理解不能なところは、この発言に冗談の要素はほとんど無く、本気でそう思っているところである。
「外でやんなかったからギリギリ落第点」
 湊叶はため息混じりにそう答えた。