1−7

 上春は襲われていないだろうか。
 病院の処置室のような場所で(廃病院のようだから、実際に処置室だったのかもしれない)手足首を縛られ、雑に床に置かれた状態で目が覚めた。しばらくこの状態で気を失っていたのだろう。全身の筋肉が凝り固まっているし、床に面していた箇所は痺れている。目の前にはカーテン風のパーテーション、背後にはマットレスも敷かれていないベッドや長く使われていないであろう移動式キャビネット。
 空気はよくない。薬品と埃の匂いが鼻をつく。長く居ると頭が痛くなりそうだ。十分ほど拘束から抜けられないか格闘したところで、こつこつと足音が近づいてくることに気付いた。何か台車かワゴンでも押してきているのか、荷物が揺れて起こる音も聞こえる。大声で叫ぶ。足音には何の変化も感じられなかった。パーテーションが開けられ、目の前にうるさそうな表情をした先の少年が現れる。首には理科の実験で使うようなゴーグルを提げ、口元には不織布マスク。腰にはガウンを巻いている。使用時には巻き込んだ部分を広げて胸元を保護するのだろう。銀色のワゴンは二段になっていて、整理かごや薬品の容器らしきものがいくつか乗っている。
「上春は襲ってないだろうな!」
 崇仁が詰問すれば、少年は迷惑そうに目を細める。
「いちいち大声出さないで。おれが興味持ったのはきみだけだから、きみの連れには一切手を触れてないよ」
「ということはこの前の襲撃者とはまた別の組織か!?」
「組織て」冗談でも聞いたかのように少年は吹き出す。「何がおかしい!」と崇仁はいきり立った。
「言い回しが面白くてつい。黒の組織かなあ。この前の襲撃者って、ちょっとかわいい格好をした女の子?」
 布の使用量が多そうな、と少年は指でフリルを描くような仕草をした。あの少女のことを「かわいい」とは言いたくなかったが、そんなことを気にしている場面でもないので崇仁は頷く。崇仁は詳しくないが、おそらくゴシックロリータと呼ばれるファッションで、黒を基調としたドレスの中、赤く大きな椿をモチーフにしたヘッドドレスが目を引いたのはよく覚えている。
「その子ならおれの知人だ。上春くんのことは襲わないように言っておくね」
 少年は安心してね、とばかりに笑顔を見せる。「上春くんって別に特徴もなかったから。おれはきみが能力に目覚めたとき、身体の中でどんな変化が起きたかを知りたいだけだし」
「そんなこと、もう分からないだろう」
「いやいや、きみが思っているよりもきみの細胞は雄弁だし、すべてを記録していてくれる。きみの話を聞いているよりも、きみの身体に聞いた方が早い」
 言いながら少年はガウンを上げ、首の後ろで留める。続いてキャップ、ゴーグル。
「は──?」
 理解が及ばず動くことすら出来ない崇仁の首元に、あの黒い触手が伸びてくる。そうして巻き付いたそれは首をぎりぎりと絞めながら崇仁を診療台へと乱暴に乗せた。身をよじらせ精一杯の抵抗をしてみるが「元気だなあ、魚みたい」と軽口を叩かれるのみ。追加で伸びてきた触手に固定された腕に何かを打たれた。悲鳴に近い叫びを上げる崇仁。
「大丈夫だって、ドーピング検査に引っかかる薬剤は使ってないから」
「おまえ、いったいなにを」
「おれの目的はさっき言ったよ」
 淡々と答えた少年は、崇仁に目隠しを施す。暗闇、朦朧とした意識、何をされるか分からぬ恐怖。いくら強靭で健全な心の持ち主である崇仁と言えども発狂を免れなかった。しばらく訳の分からない喚き声を撒き散らしたかと思うと、ついに事切れたかのように静かになる。ちょうど鎮静剤が効いてきたこともあった。ぷつ。廃病院の一室に、皮膚を割く音がいやに響いた。

 ◆◆

「佐波沼工業に続き、ついに我が龍行高校でも星憑きが襲われる事件が起きてしまいました」
 二限目から登校した重光の前でいやに深刻な調子で話し始めるいつひ。あきれ顔の重光を無視して、いつひは手元のスマホを操作すると動画を再生した。ノイズ音だらけ、最大までズームして撮影したのか、手ぶれも尋常ではない。質の悪い動画に自然と眉が寄る。これをいつひは真剣に動画を見ている証と取ったのか、とても誇らしげな顔で「この謎のスライムはなんと、阪くんを攫ってしまったのです!」と悲壮なナレーション風に言う。表情と声色ってこんなにチグハグに出来るものなんだな、と重光が感心しているとますます調子に乗ったいつひが「マジだよ」と低い声で囁く。
「まじか」
 いつひの言葉をオウム返しする重光は(阪って誰だっけ)と最近の記憶を思い返す。該当する人物は生憎ひとりも浮かんでこなかった。そもそも名前が出てこない人間の顔を覚えているはずもない。特に問題はないのでこれ以上考えることをやめた。それよりもいつひの言い方に引っかかったところがある。
「星憑きが星憑き襲うってんなら、普通に今までもあったことだろ。その動画だけでこの前の事件と一緒にすんのは無理があんじゃね」
「まあ、現に今ボクの目の前にも当事者がいるしねえ」
「俺は能力使わねーし」
 マイルールこだわりを蔑ろにされたと感じた重光が不機嫌そうに口を尖らす。いつひは「そうだねー」と適当に頷いた。
「この前の佐波沼工業の子が襲われたとこ、遠目から見た人がいるらしいんだけど。その人が『妙なモノに襲われていた、液体にも柔らかそうな固体にも見えた』的なこと言ってるらしいんだよ。それってさ、スライムじゃない?」
 自信満々である。ドヤッという声が聞こえてきそうなくらい。重光は「短絡的〜」と半笑いで返した。
「別に、イッヒーがどう考えようがどーでもいいけどよ」
「武藤くんってボクのこういう話に興味持ってくれたこと一度もないよね」
「興味持てねーよ。俺、イッヒーのその趣味と味覚だけはちょっと無理」
「味覚今関係ないでしょ!」
 頬を膨らませたいつひの頭上で三限目開始のチャイムが鳴る。いつひは不服そうな顔で席に着いた。

 ◆◆

 いつまで親友の安否を心配する演技をしていればいいかな。
 上春がクラスメイトや部活仲間から微妙な距離感で接されるようになってから数日が経った。阪崇仁失踪の件に続報はなく、上春が聞いているのは家族が憔悴しているということくらいだ。崇仁の弟は事故で亡くなっているから、実質一人息子のようなものだろう。
(人の噂も七十五日、って長いなぁ)
 教科書の小説で今の自分ぴったりの諺を見つけるも落胆する。こっちはずっとあった目の上の瘤をようやく除去できてすがすがしい気分だと言うのに、この感情を発露出来ないとは。
 すべては自分の手を汚さずに崇仁を自分の前から消し去るためだった。
 邪魔だったのだ。何をやっても自分よりもうまくやってのけるあの男のことが。それでいて、そのことを誇ることもない。そのまっすぐで非の打ち所のない綺麗な性格が、聖人に嫉妬をする自分の矮小さを見せつけられていくようで、崇仁といると、常に灼かれているようだった。
 だから、あの日、妙な女に襲われた自分を護ろうとした崇仁が星憑きとして覚醒したことはまさに僥倖とでも言うべきことだった。
 四限目の授業が終わり、上春は教室から出る。居心地が悪いのだ。それに崇仁が居なくなってから気がついたが、崇仁と一緒に過ごす時間は思っていたよりも多かった。意外に手持ち無沙汰なのである。崇仁の友人は多かったが、上春の友人はそれほどいなかった。
 適当に追加の昼飯を買って部室にでも行こうか、と購買に足を向けた上春の進路を大きな影が遮った。生徒会長、羽澄光汰だった。何やら表情が暗いが、何かあったのか、と思ってから自分の相談が原因であることに気付く。崇仁の様子がおかしいから見てほしい、と頼んでいたのだった。それで行方不明になっているから責任を感じているとかそういうことだろうか。
「すまない、上春に頼まれていながら阪のこと──」
「いやいやいやっ。ぼくもまさかこんな大事になるとは思ってなかったので、仕方ないというか、」
 大仰なリアクションから徐々に声量を落として「でも、少し前にゴスロリ風の妙な女の子に襲われたので、もしかしたらそれが元凶だったのかも。攫われたのも、まさかあの子に……?」と最後はほとんど独り言のように呟く。「あっ、何でもないです」
 上春は両手を顔の前に挙げると頭を横に振った。光汰は狙い通りしかつめらしい顔をしている。あの女には恩もあるが、襲われて痛い思いをした恨みもある。彼女の仔細は知りたい。こうやって水を向けておけば、お節介で有名な生徒会長様は勝手に調べてくれるだろう。

 光汰にまた何かあったら何でも話してくれ、とか何とか言われて話を終えた上春は予定通り購買に立ち寄り、昼食を買って部室へと向かう。その道中、対向してきた男子生徒と肩がぶつかった。
「ごめんなさ──」
「ウア〜〜〜!?」
 上春の謝罪を遮る大声、というよりも奇声。思わず引いてしまった上春に猫毛短髪の二年生は「俺が作ったさいきょうのカスタムトッピングドーナツちゃんがあ!」と続ける。うるさい。見れば床にホイップクリームの塊が落ちている。ドーナツと言っていたからきっとこの中にドーナツが沈んでいるのだろう。
「通、うるさいよ。そもそも早く相手の子に謝りなよ」
 喧しい奴と連れ立って歩いていたもう一人の二年生が咎めるように言う。こちらは対照的にツンツンと尖った短髪に黒縁眼鏡をかけた穏やかそうな男子生徒だった。彼に促され、ようやく桃色髪は「ごめーん」と適当に頭を下げた。常識人と一緒に居ることだけは褒められていいな、と上春は思った。
「こっちもすいませんでした……何か?」
 上春が尋ねたのは眼鏡の方がじっとこちらを見てくるからである。常識人じゃなかったか。
「もしかして、きみって嘘つき?」
「……は?」
 絶対に常識人じゃなかった。何なら桃色髪よりも格段に失礼なやつだ。反射的に喧嘩腰の対応をしてしまったが、至極当然だ。
「空手部の代表になった上春だよね。親友が行方不明になってしまった悲劇の主人公、親友の想いを背負っていざ大会へ、って感じかな。きみのシナリオ的には」
「そこまで綺麗にまとめるつもりはなかったけど」
 思わず本音が飛び出してしまった。平凡な人間の上春には、本音を隠し続けるのは酷いストレスだったから。やってしまったと思ったが、こんな穿った見方をする性格が捻くれた人間のことを支持する者なんか一握りだ。万が一言いふらされたとして、根も葉もない噂話で悲しむぼくをすればいい。
「ああそ。ちょっと不愉快だったから、皮肉くらい言っておきたくて」
 意外にも眼鏡はここで話を終わらせるようだった。上春は乾いた笑いを漏らす。
「性格悪いですね」
「たまに言われる。愚痴アカ、公開するならせめて校内の回線使わないほうがいいよ。おれのアカウントにおすすめユーザーで出てきたから」
 何でもないことのように付け足された情報に、上春は初めて動揺した。ひくり。口元が妙な風に痙攣する。無意識にスマホに伸ばした手をじっと見られ、上春はもう一度口元が痙攣するのを感じる。
 何も言えなくなった上春を見て満足したのかつまらなくなったのか。性格の悪い自覚のある眼鏡は「通、早く廊下片付けて行くよー」と上春の横を通り過ぎる。上春は動揺を隠すことで精一杯だった。
 フォローフォロワー0だからと赤裸々に書きすぎた。龍行の人間が見れば誰のことか分かるだろう。とりあえずアカウントを削除しようと汗ばんだ手で操作する。通知欄に「2」という数字がついているのを見つけ、心臓がはねた。
【これ、上春の裏アカ?】
 最新の投稿にコメントがついていた。もう一つも同じようなコメント。最悪仕様のくそSNS。どっかの億万長者に買収されちまえ、と舌打ちをした上春はアカウント削除ボタンを押した。
 二年生先輩だからって、あんな態度は許せない。絶対に何か仕返しをしてやる。
 自分のしたことを完全に棚に上げ、眼鏡の見下した態度を思い出して怒りを募らせた上春は大股で歩き出す。腹が立ちすぎて空腹など吹き飛んでしまった。
 ずんずんと周りのことなど気にせずに歩いていたら、また他人にぶつかってしまった。この学校、前を見て歩かないやつが多すぎるだろ。さっきとは違い機嫌が悪いので、相手を睨むような目つきで見てしまった。とはいえ、一応謝る。上春は外面がいい方だ。
「……ごめんなさい」
 今度は同学年の男子。ぶつかった衝撃でよろめき、へたり込んでしまっていた。そんな吹き飛ぶほどの衝撃ではないだろ、と上春は不愉快に油を注がれた気分になった。その上、相手は謝る素振りもないし、立ち上がろうともしない。ただ、湿っぽい視線で上春を見続けている。その内心がちっとも読めない。気味が悪い。
「大丈夫?」
 手を差し出して、上春は尋ねた。確認するようにその手を凝視した相手は、しかし手を取ることはなかった。彼が何かぶつぶつと口の中で呟いたあと、上春の後ろに人影が二つ立った。振り向けば、素行のよろしくなさそうな二年生である。上春のことを睨み下ろしている。邪魔だとか因縁を付けられるのだろうか、そもそもぶつかっただけで倒れ込んで起き上がらなかったりするあいつのせいなのに。非難の目つきで降り向けば、あいつは笑っていた。
「なんで笑って──」
 上春の言葉は途切れてしまった。突然、教室のドアが勝手に開いたかと思うと、中から宙に浮かんだ椅子が飛び出してきた。呆気にとられている上春の元に、その椅子が飛んでくる。けして悪くない上春の動体視力と反射神経を以てしても避けきるのが精一杯の速度だった。当たったら怪我で済まなかったかもしれない。
 自分の少し前方に転がった椅子を目の端に捉え、危なかった、と深い息をく間もなく、上春はひりつくような寒気を感じた。考えるより先に身体が動く。椅子を身代わりにするのが最適解だ。直感でそう思った。今までに聞いたことない衝撃音がして、後ろに投げた椅子が粉々に粉砕されていた。吹き飛んできた座面の破片が数個、上春の頬に当たって落ちる。見れば、額に絆創膏を貼っている方の二年生の腕はごつごつと不自然に隆起しているではないか。硬質化だ。
「ぼく、星憑きじゃないですよ!」
 慌てて叫ぶ。どう考えたって敵いっこない相手が二人。最近襲われすぎじゃないか? 厄払いにでも行った方がいいかもしれない。隣の市の縁切り神社はかなり効くらしいし。現実逃避をしながら、周囲の様子を探る。椅子を飛ばされた教室の生徒たちが「生徒会を呼んだ」と言っているのが聞こえた。とりあえずは安心だろう。すっ飛んできてくれ。
「ほ、星憑きじゃないとか関係ないねっ。わ、吾輩を不快にさせた罰なんだから」
 予想外の方向から返答があった。さっきぶつかって倒した(勝手に倒れた)陰気そうな一年生だ。ふひひ、と気味の悪い笑い声を漏らした奴は、とんでもない一人称に驚いて固まっている上春を一瞥してからその後ろに控えている二年生二人に目配せをした。
 巻き上げられるように浮き上がった椅子の破片が上春を襲う。顔の前で腕を交差させて屈んで防ぐ。次は脇腹を狙った回し蹴りが来ると読んだ上春は咄嗟に腕で防ごうとしながら、この行動が大変な判断ミスだったことに気付く。しかし時すでに遅し。硬質化した脚部による回し蹴りは上春が思っていたよりも強力な攻撃だった。接触の瞬間に分かってしまった。折れた。折れた骨が筋肉も傷つけたことも。
 何もかも失くしたことにも、気付いてしまった。
 上春は糸の切れた操り人形のごとく、廊下にごろりと転がる。『吾輩』は「えあっ、大怪我させろとは言ってないでしょ〜!」と今更焦ったように騒いでから「退散退散!」と逃げ出した。

一話終わり