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 阪崇仁の失踪事件が起きてから一週間が経った。失踪事件以降、佐波沼市では特に事件が起きることもなく、普段通りの生活を取り戻しつつあった。お化け触手だってスクープ動画(削除済み)以降ちっとも新しい噂を聞かないし、生徒たちの間では最早過去のものとされていた。異形の能力を持っていた保見の襲撃なんかも「そういえばそんなのあったね」くらいのものだ。
 今、九割以上の生徒の頭を占めているのは期末考査と学園祭なのである。
 一週間後には期末考査が三日間。翌日はテスト返却、それを終えれば学園祭準備期間だ。生徒にとっての一大イベント。いつひはもうテンションが浮ついていた。期末考査のことは考えないことにしていた。なんとかなれ。
 
「三笠ちゃんって数学得意だっけ?」
 いつひがチェリーパイに齧り付きながら言う。もともと食べるのがうまくないのに喋りながら口に運ぶものだから、ぼろぼろとパイ生地が落ちた。昼休み、クラスの女子数人と机を合わせてのランチタイムだ。
「いえ、あまり得意ではないです。それより賀川さん、お口の中に食べ物があるまま話さない、ですよ」
 華日がめっ、と注意をされ、いつひは「はーい」と口をもごもごさせながら答える。華日は肩をすくめた。
「三笠ちゃんのお弁当っていつもめっちゃ綺麗だし美味しそうだよね、何時起きなの?」
「六時前くらいに起きてますよ。作り置きもしますし、簡単にできるものばっかりなのでほとんど詰めるだけです」
 鶏と野菜の甘酢あん、卵焼き、ひじきの煮物、小松菜のごま和えが詰められた曲げわっぱ。ていねいなくらしを体現したかのような弁当を前に、いつひはチェリーパイを食べ終えた。次に出てきたのは奇抜な色をした大きなグミ。華日が「喉に詰めないよう気をつけてくださいね」と真剣な表情で言う。
「さすがにボク十六歳だよ?」
 少々心外だとばかりにいつひはグミを口に放り入れた。次の瞬間、大きく咳き込む。回収完了。
 華日の懸命な救護作業(とりあえず背中を叩いたりさすったりする)によって助かったいつひは「ちょっと油断した……」と涙目で呟いた。華日の「だから心配してたんですよ」と言わんばかりの視線が痛い。
 今度はグミをしっかり咀嚼し、危うげなく飲み込んだいつひは「ごちそーさま!」と手を合わせる。詰め込むように昼食を済ませたいつひを呆気にとられた様子で見つめた華日は「今日はずいぶんと急ぎ足ですね」と目をしばたかせた。
「うん、ちょっと武藤くん捕まえて話したいことがあるんだ」
「そういえば今日はちっとも見かけません」
「多分機嫌が悪いんじゃないかな」
 何でもないように答えるいつひだが周囲の人間の反応は違った。機嫌の悪い武藤重光に積極的に関わろうとするのはいつひと現生徒会長しかいないだろう。昼食を共にしたクラスメイトからは「気をつけてね」と最早死地に向かう人間にかけるトーンで言われる始末。あはは、と適当に笑って返したいつひは跳ねるように教室を出て行った。
 
 上春はSNSの裏アカが晒されたその日にたちの悪い二年生に絡まれて重傷を負っている。運が悪かったのか、真相を知った誰かに嵌められたのか。性格が真っ直ぐではない自覚があるいつひは後者の可能性も少なくないのではないかと勘繰っていた。
 そして今いつひが重光を探しているのも、上春を襲った二人に関わることであった。さきほどクラスメイトには「捕まえて話したいことがある」と答えたが、実際は少し違う。重光とある人物が話しているところを野次馬したいというのが本当だ。
 今日、重光は生徒会長に呼び出されている。
 それも本人からではなく、人伝に。湊叶が会いに来て喜んでいた重光だったが、用件が光汰からの呼び出しだと聞くや否や態度を豹変させた。不機嫌の理由である。重光は「頼む本人が直接来い」とごねていたが(こういうときにだけ彼は自分にはちっとも備わっていない誠意を他人に要求する)、湊叶が「会長が手に負えない奴の話だ」と渋い顔で言った途端、態度を軟化させ、話くらいは聞いてやるということで昼休みの今に至る。
 湊叶のあの悲愴な面持ち、それから光汰が頼み事をするというのに言伝をさせたこと、その光汰をいつひは午前中一度も見かけていないこと。なんだか好奇心を掻き立てる要素が詰まっている気がする。殺人事件の話題が下火になってきたところだから余計だった。
 生徒会室に着く。周囲に人が居ないことを確認してから、いつひは扉に耳を当てた。ふたつの話し声。重光と湊叶のものだろうが、二人ともはっきりと話すタイプではないため内容まではとても聞き取れない。悲鳴や怒声が聞こえてこないということはまだ安心できるが、重光のことなので湊叶もきっと地雷原を歩いているような気分だろう。そして肝心の光汰の声は聞こえない。光汰の声はよく通るから、発言していれば扉越しでも聞こえるはずなのだが。
 耳をそばだてていると「何してるの?」と後ろから声がかかった。驚いて扉から飛び退くと声の主に体当たりをぶちかましてしまった。うっかり盗み聞きに集中しすぎていた。
「いっ、いや、友達が中で話してるっぽいからどうしたのかなーって……」
 結構な勢いでぶつかったせいで服のポケットから転げ落ちたスマホやらお菓子やらメモ用紙やらを拾いながらいつひは答える。声の主──蜜柑色の短髪をした眼鏡男子が「大丈夫?」と心配そうにしながらいつひの細々した持ち物を拾うのを手伝ってくれた。この人知ってるな、どっかで見たぞ、といつひは過去一ヶ月に見た顔を脳内検索する。
 ふうん、と特にいつひの言い訳を怪しむこともなく(実際嘘は言っていないけれど)相槌を打った男子生徒は「入らないのは、何か事情持ち?」と訊ねる。
「だって、ボクは呼ばれてないから……。相馬そうまくんも、ここにいるってことは何か生徒会室に用があるの?」
 名前を知られているとは思っていなかったのだろう。いつひが名前を呼ぶと、相馬は少し驚いたように目を開いた。
「おれも友人を追いかけていて、少し前に見失ったところ」
 そう言って相馬は肩を竦める。「逃げるの得意だからね、あいつ」
由瀬ゆせくんのこと? だったら追いかけるの無理じゃない?」
「……きみとおれは初対面のはずだよね?」
「図書委員の相馬大助たいすけくん。ボク一回見聞きした人の顔と名前と声、忘れないんだ」
 にやり、といつひは得意げに笑った。二週間前、華日と図書室に行ったときに貸出カウンターの担当だったのが大助だったのだ。華日と楽しげに談笑していたのも覚えている。そこに由瀬通という二年生が乱入してきて騒がしくなり、通は大助によって強制退場させられていた。
「そうなんだ。きみの友達とは正反対なんだね」
「あ、なにそれ〜! ボクが相馬くんのこと知ってるって分かったら後出ししてくるじゃん!」
 ぷう、といつひは頬を膨らませて抗議する。大助は「いや、きみたちの場合は悪名を轟かせてるから知らない方が龍行エアプでしょ」と笑った。
 ナチュラルに失礼なこと言うじゃんこの人、といつひが真顔になりかけたところで生徒会室の扉が内から乱暴に開け放たれた。内開きなので扉に潰されることはなかったが、それでもその勢いに面食らって固まっているいつひに注がれるのは扉を開けた湊叶からの凍て付くような眼差し。
「あ、……うるさかった?」
 いつひの問いかけに湊叶は表情を一つも変えぬままゆっくりと頷いた。
 
 生徒会室にも光汰は居なかった。重光は我が物顔で生徒会室の応接セットのソファに腰を下ろしている。きょろきょろと部屋を見渡しているいつひに気が付いた湊叶が「会長ならいねぇよ。昨日から」と苦々しそうに顔を歪めた。
「そんなことあるんだ。生徒会室に住んでんのって思うくらいの人なのに」
 半笑いでいつひが言えば、湊叶は「それは否定しない」と珍しくいつひに同調した。
「で、会長さんはどこにいるの?」
 湊叶が言いたくないであろうことは薄々感じ取っていたが、それを察して聞かないという選択は無かった。無論、湊叶は口を噤み視線を逸らす。思ったより深刻な感じかな、と野次馬根性が声に滲み出そうになるのを必死に堪えたいつひが「どうしたの?」と白々しい言葉を口にする直前、黙っていた重光が突然話に入ってきた。
「馬鹿を助けてほしーって俺、せんぱいから頼まれたー」
「……へえ?」
 何だその楽しそうな話は、といつひは最早好奇心に満ち満ちた瞳を隠そうともせず、湊叶を見遣る。僅かな間、形容しがたい表情で宙を眺めた湊叶はやがて観念したように口を開いた。
「遅かれ早かれ、賀川には伝わってた話だしな。今、会長は龍行の一年、髭右近ひげうこんに操られてる」
「……平安呪術師的な? 割とおじいちゃんの」
「一年の、っつったろ。名字に引っ張られすぎだろ」
 呆れた声をあげた湊叶は忌々しそうな顔で続ける。「洗脳系の能力持ちっぽいんだよ。……上春を襲った二年も髭に操られてたらしい。あいつら記憶がないとか抜かしやがった」
 一旦湊叶は言葉を切ると「俺じゃ、会長を止められねえから」とぽつりとこぼした。悔しさと情けなさが滲んでいる。見ればところどころに痣もある。湊叶は治癒力の強い星憑きだ。少し前に重光にやられた怪我はもう治っているはずだから、もしかしたら操られた光汰を止めようとして受けた傷なのかもしれない。
「そうなんだ」
「そうだ……って何お前!?」
 ごく自然に話に相づちを打ったのは、いつの間にか生徒会室に入ってきていた大助である。湊叶の華麗なノリツッコミに「深刻そうなところごめん。賀川さんに用があって」といつひに近づきながら答える。
「さっきおれが拾って渡した賀川さんのものの中に小さいメモ用紙が数枚あったと思うんだけど、おれのものが混じっちゃったりしてない?」
 そしてマイペースにいつひに尋ねる。「えー、ちょっと見てみる」とビッグシルエットパーカーの大きなポケットを裏返して中のものを全て出したいつひは「これ?」と比較的綺麗な四つ折りにされたメモ用紙を手にとった。
「あ、これこれ。賀川さんとぶつかったときに落として混じっちゃったみたいなんだよね。ありがとう」
「いーえー」
 机の上にぶちまけた持ち物なのかゴミなのか怪しいものたちをポケットに戻す。湊叶が物凄い目を向けてきていた。失礼な人だ。
「それじゃ、お邪魔しました」
 用が済んだ大助が会釈をして立ち去ろうとする。それを湊叶が引き留めた。
「あ、待て。二年だよな。何組?」
「二組。上春を襲った二年のことはあんまり知らないけど、上春本人となら襲われる前にちょっと話したよ。別に変わった様子はなかったかな」
 何でもないことのように答えた大助の手を、湊叶はむんずと掴んだ。目を瞬かせてから、きょとんとした顔で大助は湊叶の顔をまじまじと見つめる。
「何話した?」
「えーっと、失踪した一年生のことを延々罵倒してる彼の裏アカを偶然見つけたから、そういうのやめたほうがいいんじゃない、って。今覚えば余計なお世話だよね。でも、わざわざ探して言ったわけじゃなくて、出会ったのも偶然だよ」
 笑って答える大助。「これ、会長さんの現状に関係あるの?」
「なさそうだ。上春はいちおう被害者だしな。つーか、何でも先取って答えんな」
「ごめんごめん。それじゃ、おれクラスメイト探してる途中だから」
 終始笑顔だった大助は今度こそ生徒会室を後にする。湊叶は少し腑に落ちなそうであった。
「それで、肝臓に優しそうな髭くんは」
「面白くねぇからやめろやめろ。会長が髭に操られてるってのは──」
 湊叶が説明に戻った直後である。生徒会室に程近い廊下から、大きな衝撃音が響いた。それなりの質量、たとえば人一人くらいが吹き飛んで叩きつけられたような、そんな音。反射的に廊下に出たのは湊叶だった。その後を楽しそうに顔を綻ばせた重光が悠々とついて出て行く。いつひは少し開けた扉から廊下の様子を覗いて確認する。
 そこには郷原直哉と飯森洋平の姿があった。上原を襲った二年生たちだ。表情はどこか弛緩しており、髭右近の異能下にあると見て取れた。
「またかよ! いい加減にしろ!」
 湊叶が辟易した声で叫ぶ。術者としても能力を理解している星憑きを使うだろうから、同じ星憑きが操作の対象に選ばれるのはそりゃそうでしょ、といつひは頷いた。
「またお前らかよー」
 重光もうんざりしたような声を上げたが、湊叶のものとは少し意味が違う。最近殴ったばかりのもの・・をまた殴ったとしても面白みに欠けるからだ。食事と同じで、同じ声を何度も聞いても飽きてしまう。
「先輩よろしくー。俺はクソ馬鹿担当だからさー」
 重光はひらひらと手を振り、湊叶の斜め後方で座り込んだ。観戦と決め込まんする重光に、湊叶は何か言いたそうな目を向けたが、相手をしていても仕方がないと直ぐ前に向き直った。途端、バンと音がして掃除用具ロッカーの戸が開く。洋平の能力によるものだ。音に続いて飛んでくるのはモップ。代わり映えのしない攻撃方法。自我を奪われている状態では思考がパターン化するのだろうか。はたき落としながら洋平に接近する。八つ当たりのもあるが、自分の手で攻撃をしない星憑きは嫌いだ、と洋平を睨みつけた。三歩目で一気に距離を詰めた湊叶への対応が遅れた洋平をカバーするように直哉が間に滑り込んできた。連携も命じられるのか、と湊叶は警戒を強める。直哉の能力は確か真皮の硬化。
 メリメリという音の後、ロッカーの戸が床と水平になるような向きで飛んできた。既のところで身を捻って躱す。目が良くて助かった、と頬を冷や汗が伝う。大きな音を立てて壁にぶつかり、3分の2程度のサイズになるくらいにひしゃげて落ちたロッカーの戸を、湊叶は武器にすることにした。使い勝手のよいサイズ感と重量のスチール板である。拾い上げると同時に今度はバケツが飛んでくるので板で薙ぎ払う。
「っりゃ!」
 スチール板を盾代わりにしながら直哉に近づいた湊叶は、振りかざした板を直哉の脳天めがけて叩きおろした。耳を劈くような衝撃音の後、湊叶が見たのはスチール板から頭だけを出している直哉である。真顔だ。コントかよ、と思わず吹き出してしまったが、なるほど硬化能力は伊達ではないようだ。後ろでいつひの爆笑とシャッター音が聞こえたことで醒めた湊叶は口元の笑いを引っ込めた。
「んじゃ、次は耐火性能テストしてやるよ!」
 言いながら湊叶は左手に炎を灯す。一瞬、この行動で重光の逆鱗に触れたことを思い出し、厭な悪寒に襲われるも振り払う。あくまで、異能を使うのは『補助』的に。この信条は崩さないつもりだ。
 新種のひだ襟のようになっているスチール板を脱いだ直哉がガードの構えを作ったのを見た湊叶は炎を纏わせた拳を放つ。皮膚の水分が蒸発する音がして、ゴムの焼けたような匂いが鼻を突いた。湊叶は顔を歪ませる。やはり駄目だ。これは人が人にすることではない。反射的に能力の発現を止めた拳を最後まで押し込む。直哉は僅かに後退したものの、大したダメージは入っていないように見える。しかし、拳の痕は確かに直哉の腕に焼き付いていた。
 危ない、といつひの声で後ろからモップが飛んできていることに気づき、床に這いつくばってそれを避ける。短く息を吐くと跳ね起き、息つく間もなく邪魔な壁役直哉に躍りかかった。炎を纏っていない、素手だと見た直哉は防御態勢を作ろうともしないので、威嚇に大火力の炎を見せてやる。案の定、先と同じ様に腕でガードを作るのを確認すると、湊叶は右肘で直哉を自身の後ろ側に押しやり、直哉の後方、余裕の体で能力を使おうとしていた洋平に一気に肉薄する。まんまと出し抜かれたと直哉が気が付いたのは洋平が拳一発で沈黙させられた後だった。瞬間、直哉は渾身の一撃を振るったばかりの湊叶の頭めがけて、自身の硬化した両拳を最上段から叩きつけんとした。ダブルスレッジハンマー。なるほど、皮膚を硬化出来る直哉ならではの技だ、などと感心する。仮に当たれば大ダメージだが、回避すれば相手に出来る隙は大きい。直哉を観察し、感心している余裕があった湊叶がそれを避けられない道理は無かった。半歩下がった湊叶の前で思い切り拳を空振りし、無防備な姿を晒している直哉の側頭部に鋭い蹴りを浴びせる。硬い、が存外平気だ。手応えを感じた湊叶の脚を、拳を解いた直哉が掴んだ。硬化した皮膚が食い込み、湊叶の顔が痛みに歪む。
「いッ、ってぇな!」
 掴まれた足を持ち上げられる前に、思い切り下ろす。床を踏みしめる前に直哉の手が離れた。すかさず、さっきとは逆側の頭を蹴りつけると直哉は数秒虚空を見つめた後、ぐるりと白目を剥いて後ろへ倒れた。
「呆気ねえ」
 自我を失くすのは喧嘩において大きな不利となるようだ。操られていなければ、もう少し手応えのある喧嘩になっただろうに。ふうと息を吐いた湊叶の目の端に、人影がゆらりと映った。ちゃんと見なくても分かる。今のは。
「……会長……!」
 廊下には虚な表情をした光汰が仁王立ちをしていた。
 
 いつもの朗らかで優しい雰囲気は欠片もない。同じ姿形をしているが、全くの別人みたいだ。前に重光がいるというのに、いつひは背筋が冷えるのを感じた。
 愛する後輩に呼びかけられても光汰は無反応だ。視線はどこでもないところに定まっていて、まさに虚空を見つめていた。
(操られてる、っていうのは本当みたいだけど、術者はどこにいるんだろ)
 いつひは光汰の周りを彼に勘付かれないように窺う。しかしそれらしき人間は見当たらない。事実上龍行最強とされている光汰の様子がおかしいとなればわざわざ近づいてくる人間もいないから、周囲は酷く閑散としていた。
 光汰に視線を戻す。すると、宙空を見ていたはずの光汰と目が合った。常磐色の瞳に射竦められ、いつひはきゅっと身を強ばらせた。それに気がついたらしい重光が光汰の前に躍り出る。
 そして繰り出されるのは、顔面狙いのド直球ストレート。重光はいつもこれだ。圧倒的な暴力で相手を蹂躙する。最早彼の哲学とも言ってよかった。
 しかし、光汰はそれをいなして、弾く。重光は僅かにバランスを崩す。その足下に追撃。リカバリ不能なくらいの体幹の崩壊を狙われる。無論そんな小手先でそう易々と重光がやられるはずもない。びくともしなかった重光は光汰の髪の毛を掴んで、廊下に頭を叩きつけた。そもそも『元々の』身体能力は重光のほうが上だ。これは明確な事実である。
 だけれども。いつひには懸念点があった。上春を襲った二人は異能を使っていた。操られた状態で異能を使える証左だ。自我を奪った相手に能力を使わせられるなんて、そんな便利な能力があるなんて。
 光汰に異能を使われたら、重光は敵わない。いつひは無意識に唇を噛み締めた。
 
 光汰の能力を警戒していたのは重光も同じだった。そんな自分も癪だったが。
 思い出したくもない。能力を使った光汰は、重光を初めて悶絶躃地に追い込んだ。単なる体術で、重光を地に這い蹲らせたのだ。
「終わりかよ」
 うつ伏せになっている光汰の頭を踏みつけながら重光は低い声で問いかける。先ほどから光汰は言葉を口にしていないため、返答は期待しても無駄なのかもしれない。光汰が起き上がりそうな気配を感じ、重光は頭を踏みつけていた足をあげて光汰の腹部を蹴り上げた。水気を含んだ音がして、光汰の身体がびくりと跳ねる。呻き声すら漏らさないので気色が悪い。まるで人形を相手にしているようだ。一瞬窺った表情も能面のように変化がない。不興顔をした重光は、つまらなさそうに光汰の身体を何度も踏みつけた。
「……武藤」
 操られていたとしても、見た目は完全に光汰なのである。尊敬する先輩が重光の良いようにされている様は、湊叶にはとても正視に耐えうるものではなかった。絞り出すように零れた言葉は重光には届かない。湊叶は息を吸うと、もう一度、今度は確固たる意思を以て「武藤」と呼びかけた。
「あ、なに?」
 きょとんととぼけた顔を重光は湊叶に向ける。
「やりすぎだろ。会長嬲るより操ってる奴見つけるのが先──」
「それは先輩の役目だろーが、何突っ立ってぼけっとしてんだよ」
 言いながら、重光は光汰を強く蹴りつけた。鼓膜を揺らした鈍い音で、湊叶は耐えがたい不快感に襲われた。
「ほーら、早く探してこないと先輩が大好きなこいつの指、一本ずつ折っちゃうぞー。全部折り終わったら歯でも折ろっかな。歯って全部で何本?」
「いい加減にしろ……! やっぱテメエに頼んだ俺が馬鹿だった……!」
 もう我慢ならない、と拳を作った湊叶の目の前に桃色の髪をした男子生徒が突然現れる。動きを止めた湊叶の鼻を甘い香りがくすぐる。
「まーまーまー、俺に任せろって」
 へらりと笑った由瀬通は、彼の存在に気付くや否や色をなして襲いかかってきた重光を躱し、光汰のすぐそばに瞬間移動すると、光汰を連れて、消えた。
 言葉を失う湊叶と怒りの矛先を失った重光。そこに「はい、髭右近くん見つけたよ。何でか焦って出てきてたから」と穏やかな声。頬を押さえた大助が、空いた右手で小柄な男子生徒の首根っこを捕まえていた。
「会長さんのパンチ、むちゃくちゃ痛くて涙出たかも」
 あははと笑う大助とガタガタと震える髭右近。湊叶は薄ら寒いものを感じたが、あまりにもお手柄なのでその感情は無視することにした。
「っ、次はオマエっ!」
「あ、」
 髭右近の瞳が妖しく光ったかと思うと、重光を指さす。最悪だ、と湊叶は気絶しそうなくらいの絶望に襲われた。大助も「まずった?」と半笑いを見せる。
「は?」
 しかし、髭右近に狙われた当の張本人は不可解そうな表情を浮かべるだけだ。暫しの静寂。髭右近はもう一度「お、オマエっ!」と指を差した。再び、静寂。緊張が緩んだ湊叶と大助は思わず顔を見合わせた。
「人を指差しちゃいけませんって教えて貰えなかったの?」
 瞬きの間に髭右近の間近まで近寄っていた重光は、髭右近が突き出している指を掴んでねじり上げる。「ぎゃ!」と短い悲鳴を上げた髭右近は、直後白目をむいて気絶してしまう。重光はと言うと意味不明なものに出会ってしまったとばかりに、目と口を半開きにしている髭右近に心底迷惑そうな視線を送った。
 
 ◆◆
 
「皆、俺が不甲斐ないせいで迷惑をかけてしまった。すまない、そしてありがとう」
 大助から連絡を受けた通に連れられて戻ってきた光汰は開口一番謝罪した。湊叶が「会長が悪いんじゃないっすよ」とフォローに回るが、「俺には効かなかった異能だけど?」と性根のひん曲がった重光が嬉しそうに知らせるので台無しである。
「武藤にだけ効かないんすよ」
 湊叶は足下に目を遣る。まさに疲労困憊状態の髭右近が壁にもたれ掛かっていた。あの後、髭右近の能力の発動条件の確認を行ったのだが、私怨が表に出る性格の人間だらけだったのでつい無理をさせた結果だ。具体的には、気を失った髭右近を叩き起こして異能を使わせ、異能が発動すれば髭右近を気絶させて能力の強制終了シャットダウン。これを物好きな一般通過生徒相手含め五回行ったが、『髭右近と目を合わせた状態で対象に向けて指を差す』が発動条件のようだった。
「武藤は精神が強靱なんだろう。俺も見習わなければ」
 しみじみと光汰は頷く。あれだけ人を殴ってちっとも痛まない心は確かに強靱とも言えるかもしれない。湊叶はこっそり呆れた。
「距離を取れば異能の影響下ではなくなるって、相馬はよく見抜けたな」
「見抜いたわけじゃないですよ。羽澄先輩の緊急避難が主な目的です。でも、見抜いたと勘違いされたのは結果的に上手く働いたみたいですね」
「大助は賢ぇからなあ」
 横で自分の手柄のように得意げにするのは通だ。大助はこのような態度に慣れているのか特段の反応は見せなかった。
 
 もう少し馬鹿光汰に意地悪を言ってやりたかったが、いつひがいなくなっていたことに気付いた重光は探しに行くことにした。何も言わずにいなくなるときは、早めに探しに行かないとむくれるパターンだ。
(人気が無くて静かで、周囲を囲まれてるせまっこいところ)
 押し入れとかも好きらしい。家ではたまに押し入れで寝ることもあると言っていた。重光はふかふかのベッドでしか寝たくないのでよく分からない。
 とりあえず美術室裏、使っているのかもう使わないのか分からないイーゼルが積み上げられた場所へ足を運ぶ。一月ほど前のときもここにいたからだ。案の定、今回もイーゼルの足部分に半ば身体を捻じ込むようにしてしゃがみ込んでいた。腰の位置が低くなるからしんどそうである。
「イッヒー」
 呼びかけると拗ねた色をした瞳がこちらを見た。
「いつの間にかいねーから、探しに来た」
 重光は取り繕うことを知らないので、思考と行動をそのまま告げた。いつひは「だってボク得体の知れない異能の餌食になるところだったんだよ!?」と語勢そのまま立ち上がる。鈍い音がしていつひが潜っていたイーゼルが揺れた。
「い゛ッだぁ……」
 イーゼルに阻まれ、立ち上がることが出来なかったいつひはその場でうずくまる。何してるんだろ、とやや白けた目を向けていた重光は、なかなか起き上がらないいつひに歩み寄ると手首を掴んで引き抜いた。
「もうちょい優しく出来ない?」
 強打した腰をさすりながらいつひが不満げに物申せば、「今のはイッヒーが鈍臭いからだし、適切な対応」と重光。
「むう。あ、蟹パン買ってくれたら許してあげる」
「許される何も俺悪くなくね?」
 首を傾げた重光は、この後いつひが強請ねだった『蟹パン』が蟹を模した形のパンではなく、コッペパンにワタリガニの姿揚げを挟んだものだと知り、再び首を傾げたのだった。どこでこんな珍妙な食べ物を見つけてくるのやら。