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 華日がいつひにまともに口を聞いてもらえなくなってから数日経った。元々社交的ないつひは華日とは絡みの少ないグループと過ごすようになっていた。大怪我をしていた重光も翌日には当然のようにいつひの傍に居て、怪我など無かったかのように過ごしている。湊叶もそうだが、回復力の強い星憑きなのだろう。
 いつひを無視したことなどなかったことにされたクラスの雰囲気に華日は何となく馴染めずにいる。もやもやを抱えたまま授業を受ける華日の耳に遠い空を駆ける飛行機のエンジン音がやけに響いた。窓の外を眺める。梅雨が開けた夏の空らしく、澄み切った青と白が広がっている。目が痛くなるくらいの彩度。
 一週間もしないうちに夏休みだ。
 
 一日中ぼんやりと物思いにふけっていた華日だが、放課後はそうはいかない。今日は蔵書点検の日である。図書委員の一大イベントだ。夏休み前に生徒に全ての本を返却をお願いし、一日使って所蔵図書の全点検を行う。放課後までは学校司書が進めてくれていた作業に図書委員総動員で加勢するのである。
 書架から本を一冊ずつ取り出してはバーコードを機械で読み取っていく。同じ動作の繰り返し。バーコードの読み取り音が延々響いている気がしてくる。華日は黙々と作業を進めた。
 大きなトラブルもなく、全員が真面目に取り組んだこともあり点検作業は予想よりも早く完了した。時刻は十八時半を回ったところ。図書室を出た華日は手首をくるくると回し、うーんと大きく体を伸ばした。
「お疲れ様。三笠さん、手際が良いね。経験者?」
 横から声をかけてきたのは二年生の相馬大助だった。華日は「お疲れ様です」と返してから「中学のときにもやったことがあるので」と恐縮しながら答える。他の人の仕事ぶりは自身の作業に必死だったため見ていないが、大助のことだからきっとそつなく作業をこなしていたのだろう。
「道理で。それじゃ、気を付けて帰ってね」
 にこやかに笑った大助に「はい、ありがとうございます」と華日はぺこりと頭を下げる。大助の背中を見た途端、不意に華日の脳裏に青い花のイメージが浮かんだ。仄暗いところでぼんやりと光っているような、それでいて鮮やかな、そらの色をした花。ちょうど大助の右目のような色だった。唯誓のときに見たような赤い椿とは別物だ。けれど、何故だろうか。気にかかるというか、喉に引っかかった小骨のような不快さがあった。
(赤い椿のことで過敏になってるのかな)
 小さくなっていく大助の背中を見送りながら、華日は両手の指を絡ませた。
 昇降口で下靴に履き替えていると、校舎の方から湊叶の声がした。振り向くとちょうど目が合う。
「──お、三笠。こんな時間までいるの珍しいな」
「今日は図書委員は蔵書点検をしてくれていたんだ。お疲れ様」
 意外そうにする湊叶に光汰が耳打ちする。聞こえていた華日は「そうです」と少し照れたように微笑んだ。湊叶は「へー、お疲れ」と軽い調子で労りの言葉をかけた。
「お二人とも生徒会のお仕事ですよね。お二人こそ、お疲れ様です」
「俺は会計締めてたくらいだし、別に」
「……湊叶は、三笠と話すときには眉間の皺が無くなるんだな。可愛い」
 二人の会話を聞いていた光汰が、重大な発見をしたかのような口調で呟く。
「あ゛!?」
「え゛?」
 ほぼ同時に返ってきた奇声にやや圧倒された様子の光汰は「ああ」と頷いた。「俺が見るときは大体皺がある」説明しながら光汰は自身の眉間を指でつまみ、放して笑う。
「湊叶の新しい一面を知れた気分だ。……おや、湊叶、顔が赤いぞ。早めに帰った方がいいな。この前のこともあるし」
 湊叶の赤面の大元凶である光汰は頓珍漢なことを言い出す始末。もうツッコミを入れる気力も削がれるレベルなので「……んじゃ、会長も気をつけて」と自身の下靴がある下駄箱へと向かう。光汰は電車通学で、湊叶は駅とは反対方向への徒歩通学だ。華日もお辞儀をした。
 校門を出たところで、華日は門にもたれて立っている湊叶を見つけた。こちらを見ると湊叶は体を起こす。
「一人なんだろ、送る」
「えっ、大丈夫ですよ」
「ほっとけるかよ。最近治安も悪ぃのに」
 呆れたように湊叶が言う。
龍行うち、変な奴らから狙われすぎだしよ」
「この前のスライムさんは、総能研の方が引き受けてくださったんですよね」
 華日の言葉に頷きながら、その時のことを思い出した湊叶は苦い表情を浮かべた。あのときのような『熱』を出そうと挑戦してみたが、ちっとも上手くいかなかった。火事場のクソ力とかそう言った類だろうか。ただ、薬の力に頼らずとも強大な敵を退けられたことは湊叶を大きく勇気づけていた。
「会長は夏休みまでに解決したいっつってたけど、難しいだろうな。会長も分かってるだろうけど。星憑き絡みの事件で総能研が消極的なんだからどうしようもねえ」
 頭の後ろで手を組んだ湊叶はぼやく。華日は頷くしかなかった。
 
 ◆◆
 
 怪物やら化け物やらと悪名高い重光は、時折いつひに良いようにされている。例えば、今日はこめかみぐりぐりの刑をかれこれ五分ほど受け続けていた。痛くも痒くもないのでいつひの気が済むのを待っているところだ。
「な〜ん〜で〜今言うの〜! 明日から夏休みなのに〜!」
「ふつーに忘れてたって、これ何回答えたらいいんだよ」
 こめかみへの攻撃はどうだっていいが、いつひが何度も同じことを言うのには流石に辟易してきた。ちなみに本当に今言ったわけではなく、今朝言った。現在は終業式が終わり、ファミレスのボックス席で涼みつつ駄弁っているところである。
「訊いてる訳じゃないし! 文句です。純然たる文句」
 ぶす、と不機嫌な表情のお手本を見せたいつひは「もー疲れた」と拳をほどいた。「分かった日に言ってくれたらすぐ捜索始められたのに〜!」
 いつひがお冠の理由、それは「触手と校内で出会った」事実をすぐに知らせなかったことにある。
「だから悪かったって」
 謝るのも幾度目だろうか。いつひに責められているからとりあえず謝罪らしい言葉を並べているだけで、本心はちっとも反省していないが。
「つか休みに入っても入ってなくても一緒だろ」
 そのため、疲れてくると本音がまろびでる。もともと態度から滲み出ていたのでいつひも殊更がなり立てたりはしないが、手は出た。脇腹に頭突きされる。もちろんダメージは無いが、適当に痛がっておく。
「でもそっか、休み中の方が怪しまれなくて済むかも……」
 口元に手を当て、神妙な顔をして悟ったように言ったいつひがふと顔を上げると、口をぽかんと開け目も見開いた重光の顔があった。
「何フレーメン反応してんの!?」
「ちゃんと胡散臭い自覚あんだなあ、って」
 にやにやと笑いながら重光。再びむくれ顔をしたいつひは「やっぱ休み中じゃないほうが情報入って来やすかったな。武藤くんが忘れてなきゃよかったのにな」とぶつくさとぼやきながら重光の向かいの席に戻った。
「ま、ぼちぼち何かしらが釣り上がって来そうなもんだけど、っとほら!」
 今度はしたり顔。猫の目のかくやとばかりに表情をころころと変えるいつひにスマホ画面を押し付けられ、重光は身を少し反らせた。画面はテキスト系SNSの検索タブだった。
「あー……?」
 目を眇めた重光は煌々と光る画面に顔を近づけ、映る文字を追う。「例の動画の主、龍行の生徒かもってマジ?」「うわ、これやば」「通ってる学校で草」等々。ほとんどの投稿に同じ動画へのリンクが共有されていた。「ヤバ! 〇〇に例の触手現る!?」と仰々しいタイトルフォント。サムネイルに使用されているフリー素材の驚いて目を見開いている男性の顔を見た重光はうんざりとした。こいつが出てくる動画にろくなものはない。
「これはボクが用意した即席動画です」
 重光が大方画面に表示された内容を把握し、話題の大元とも言える動画の存在に気がついたのを見計らったように、いつひは得意げに笑う。音声読み上げソフトで作ったナレーション、安定のフリー素材、紙芝居。十分弱の動画を倍速で見せられた重光はたいへん白けた顔をしていた。タイトル以上の情報はなかった。
「タイトル以上のこと言ってなかったな」
 重光は思ったことをそのまま口に出すことに躊躇いはない。いつひはぐっと言葉に詰まったあと「そーゆーもんなの。一瞬でも話題になれば上出来上出来」と口を尖らせた。
 満足げないつひはしばらくスマホの画面を眺め──、徐々にその顔を曇らせていく。重光は可笑しそうに口の端を僅かに上げた。
「で、有益な情報はあったか?」
「……武藤くん、ボクの答え分かってて訊いてるでしょ」
 恨めしげな目つき。重光は「おう」と目を細めた。ぷち。いつひの堪忍袋の緒が切れる音がした、のではなく重光がディスペンパックを開けた音である。半分食べた辛味からあじチキンに蜂蜜をかけるのが重光のお気に入りの作法食べ方だ。食事を楽しむ重光の前でいつひは烈火の如く怒り散らかしていたが。
「ふむ、何やら興味深いことをしているようだが……、飲食店で騒ぐのは感心しないな」
「げっ、生徒会長!」
「あ?」
 いつひと重光の席の横に現れ、声を掛けただけで二つの睥睨を浴びせられたのは羽澄光汰である。重光に至っては殺意まで感じられる恐ろしい目つきである。
「むう、生徒会長と呼ばれるのもあとどのくらいだろうか……。それはさておき」勝手に感慨にふける光汰にいつひは呆れ返った。「賀川も昨今の星憑き絡みの凶悪事件について調べているのかい?」
「そりゃ一市民として気になるよ。ボクなんかは能力を持たない無辜の一般人なんだし……」
 うるうると大きな瞳に涙を滲ませたいつひは大袈裟な調子で訴える。
「触手について、俺は湊叶から聞いているんだ。そして、朗報がある」
 新必殺技のお披露目をするヒーローのように光汰は笑んだ。重光は対照的に反吐でも吐きそうな顔でそっぽを向いた。
 高らかに『朗報』を伝えてくるのかと思いきや、光汰は急に声を落とす。
「実は、龍行の生徒が保有している能力をまとめたファイルを俺は見られるんだ。普段はほとんど見ることはないんだが──」
「うっそ!」
 興奮で頬を紅潮させたいつひが大声を上げて立ち上がる。勢いのままに手のひらを机に打ち付けたので食器が揺れて音を立てる。重光が不愉快そうに片眉を上げた。
 困った顔で人差し指を唇に付けた光汰が「賀川、静かに」と諭す。
「えー、ボクも見たいなあ」
「生徒会長になれば、見せてもらえるかも知れないぞ」
 悪戯っぽく光汰は笑った。
「俄然面白くなってきたから座りなよ」
 いつひは席を奥に詰めて光汰の座るスペースを作る。重光の視線を躱しつついつひの隣りに座った光汰は「でも、該当する能力を持った生徒はいなかった。ただ、」と続ける。いつひがごくりと生唾を飲んだ。最早エンターテイメントだ。
「相馬大助。彼の能力欄は空白になっている。この表記になっているのは、相馬とそれから賀川、二人だけだ」
 光汰はいつひの目を見ながら、確かめるように言った。
「話を聞いてみる理由にはなると思うんだ」
「相馬くん……」
 物腰の柔らかそうな好青年のふりをして失礼なことを言ってくる図書委員だな、といつひは思い返す。
「珍しい目してるよね。青っぽいのと黄緑っぽいの」
「賀川の髪もなかなか珍しいとは思うが」
 いつひの蒲公英たんぽぽ色の髪は俗に言う『天使の輪』の部分だけが鮮やかな黄緑色になっている。本人曰く「光の反射でこうなってるんじゃない?」との弁だが、そう聞いて納得した人はいない。鮮やかな色の髪と瞳は星憑きの特徴でもあるが、いつひや大助のように明らかに三色以上の色を持っている星憑きは珍しい。
「そういうわけで相馬とは話がしたいんだが……、当該の触手を一番近くで見ている武藤に同席してほしいんだ」
 重光は話を振られているというのに完全無視を決め込み、マルゲリータに舌鼓を打っている。家庭では目の飛び出るような高級料理を当然のように食べている彼だが、庶民的な食事も「これはこれで美味い。別ジャンル」と言って好みのものはよく食べている。
「武藤くん! 行くよね?」
 面白そうな話に乗っからない手はないとばかりにいつひが発破をかけて、重光はようやく視線を上げた。
「相馬とかいうやつをぶん殴ったらいいの?」
「まずは話し合い! それから!」
 呆れた! とため息を吐くいつひに「殴らないぞ」と光汰が苦笑いをする。
「で、武藤くん」
 いつひが答えを促す。重光は「行く行く」と雑な答えを返した。いつひに言われて仕方なく、というのが如実に現れている。
「よかった。じゃあよろしく頼む」
「幸先いいなあ。楽しい夏休みになりそう!」
 満面の笑みを浮かべたいつひはジョッキに入ったいちごミルクを美味しそうに啜る。横では光汰がお姉様方に逆ナンパされており、いつひは夏だなあ、と俄然楽しくなってくるのだった。