3-4

 夏休みに入って三日目、午前十時。二学期まで着る予定がなかったはずの制服を着て、華日は学校に向かっていた。理由は委員会。休み前の蔵書点検作業に不備があったらしく、人手が欲しいから来れる人は来て欲しいと教師経由で司書から連絡があったのだ。ちょうど予定もなかった華日は二つ返事で了承して、今に至る。
 休み中の校舎は、何だか黄昏時の感じがする。小学生の頃、遅くになってから忘れ物に気付き、学校に取りに戻った記憶と少し被るところがあるからだろうか。
「こんにちはー……」
 図書室の扉を開けると、「三笠さん! ごめんなさい!」と突然の謝罪。意味が分からず呆然としていると「作業にミスがあったっていうのが勘違いだったの!」と再び頭を下げられる。
「そうだったんですね! 良かったです」
 尚もぺこぺこと頭を下げ続ける司書に恐縮した華日は「大丈夫です」を繰り返しながら図書室をあとにする。扉を閉めて、ふうと息をつく。顔を上げるとちょうどやって来た様子の大助が目をぱちぱちと瞬かせていた。
「どうしたの?」
「ええと、相馬先輩も蔵書点検にミスがあった点で来てるんですよね? でも、作業ミス自体が勘違いだったみたいで、謝罪の嵐を受けてきたので……」
「なるほど。三笠さんのおかげでおれは助かったわけだ。ま、一応顔は出すけれど」
 冗談っぽく笑った大助は図書室に入り──、少し疲れた顔をして出てきた。「確かに勢いが凄かった」華日はくすりと笑みをこぼした。
 昇降口まで二人は談笑をしながら歩く。
「相馬先輩って部活とかしてます?」
「いや、たまに助っ人に呼ばれるくらいかな」
「助っ人?」
「この前はサッカー部に呼ばれた。うちの学校、というか佐波沼の学校の運動部って殆ど公式大会に出られないし、ガチじゃないからだろうけど」
「運動も勉強も出来るんですね……」
 華日が感嘆のため息を漏らす。大助は眉を下げて笑った。
 
 ◆◆
 
 冷房の設定推奨温度が二十八度だと思い込んでいるバカ親父のせいで二十八度に設定を固定(リモコンを電源ボタンしか使用できないように改造)された自室のエアコンを忌々しげに睨む。エアコンに罪はないが。そもそもは湊叶が設定温度を十八度にしてかつアイスを食べていたところを見られたのが原因なので、本当にエアコンは無罪だ。
 暑いと自身の能力が嫌になる。現実逃避のように氷の能力者って格好いいな、などと考える。湊叶の知り合いにはいないが、もし居たら夏なんかは大人気だろう。そういやこの前の冬は由瀬に焚き火をせがまれて非常に面倒だった。
 寝転がってぼーっとする湊叶の耳に自室のドアを雑に開ける音が飛び込んできた。ノックもなしにこんな開け方をする家族は妹の麗衣架しかいない。バカ親父でも一応ノックはする。するだけだが。
「兄貴。華日ねえに『シルワ商業施設でずんだアイス専門店が期間限定出店する』って伝えて。この前気にしてたから」
 一方的に連絡事項を言い終えた麗衣架はやはり雑にドアを閉めた。
「……なんで俺なんだよ」
 数拍遅れて身を起こした湊叶はぼやきながらもテキストメッセージをスマホで打ち始める。麗衣架の言葉を聞いたまま書き起こし送信してから「麗衣架が言ってた」と追加する。すぐに既読マークが付いて、返事が送られてきた。
 [ありがとうございます。楽しみです]
 よし業務終了、と寝転ぼうとしたところで再びドアが開かれる。
「んだよ!」
「あとこれ。この前落としてたって」
 手渡されたのはビニール袋に入れられたうさぎのキーホルダーだった。そういえば華日がリュックに付けていた気がする。
「自分で渡せよ」
「うちに落ちてたんだし、兄貴が渡したほうが華日姉も喜ぶでしょ」
「はぁ!?」
 思ったより大きな声が出てしまい、湊叶は咄嗟に口を手で覆った。一瞬勝ち誇ったような表情を浮かべた麗衣架は「じゃあよろしく」と引っ込んでしまった。この間、家の前で騒いでいたことが尾を引いている気がするぞ、と湊叶は華日の現在地を尋ねた。すると委員会の何やかやで学校の近くにいるらしい。散歩がてら行くか、と湊叶は腰を上げた。ポストに入れてその旨を連絡するのが手っ取り早いが、麗衣架にバレたときが面倒そうだ。
 
 アイスを買って食べながら学校へ向かうと、道中の噴水広場に華日の姿を見つけた。
「お、三笠──」
 片手を上げ、声を掛けてから華日の隣に誰か居ることに気が付く。相馬大助だった。
「……相馬もいたのか」
「あはは、残念だった?」
 大助はにこにこと明るく笑う。面倒臭いので流しておく。
「この前うちに落としてった」
 言ってからこれだとまるで自分が見つけたような言い方だ。慌てて「って、麗衣架が」と付け加えると華日の笑顔のトーンが一段階落ちたように見えてくる。麗衣架の奴が変なこと言うからそんなふうに感じるに違いない。
「ありがとうございます。わざわざ届けてもらって」
「ちょうど暇してたから。んじゃな」
 手を振って立ち去ろうとすると、公園の出入口に立ち竦む、黒い人影に気づく。ゴスロリ調ファッション、今日は日傘まで差している。彼女を視認した途端、湊叶の表情が怒りで歪んだ。
「テメエ……!」
 これ以上唯誓が華日に近づかないように、湊叶は大股で彼女に向かっていった。唯誓の表情は無い、しかしどこか感情を押し殺しているようにも見えた。
「華日の前に出てくんなっつったろ」
 華日にこのいざこざを悟られぬように小声で低く唸る。唯誓は湊叶のことを一顧だにせず、ただ淡々とした調子でそれに応えた。「わたしの行動を貴方に制限される謂れはありません」
「ッざけんな」
 湊叶は怒りのままに唯誓の肩を掴もうと手を伸ばす。唯誓に指先が届く寸前、二人の頭上で響く高い破裂音。音のした地点から硝子片が降り注ぐ。驚いた湊叶は飛び退き、唯誓も目を僅かに見開いて動揺を示している。
「……ああ、なるほど。貴方は炎を操る異能を持っていましたか」
 唯誓はやはり淡々と呟く。湊叶は不敵に笑った。唯誓の能力の予想はつく。硝子を出現させる類の能力だろう。同時にこちらが感情に任せて能力を使っていなかった場合の展開を考えて冷や汗が滲んだ。炎で硝子を割ることができたが、本来なら肘から先を切り落とされていた。平然とそんな攻撃を仕掛けてくるなんて、普通の感覚なら出来ようはずもない。
「そういえば、薬はどうでしたか? 別人になった気分だったでしょう」
 唯誓はまさに『営業スマイル』を浮かべた。反吐が出る。湊叶は挑むように笑んだ。
「お前が寄越した屑スライムは俺が炭にしてやったし、薬を使ったのはスライムの方だよ!」
 言いながら唯誓に躍り掛かった。全身に炎を纏い、硝子に備える。燃費なんか気にしていられない。華日のことも気になるが、大助と一緒なら少し安心だ。
 女子を殴る男など赤子からやり直せと思うが、こいつを殴ることだけは許されたい。あまつさえ華日に近づこうとしていたのだ。あの夜の言葉を信用していたわけではなかったが、裏切られた感覚が凄まじい。
 ロケットの如き勢いで唯誓を拳の射程内に捉えた湊叶だったが、放とうとした一撃は眼の前に現れた分厚い硝子によって阻まれる。車の窓に使われるような強化硝子のようで、単純な打撃と一瞬炎に炙られたくらいでは破砕されなかった。出現させる硝子の種類も自在のようだ。この隙に逃げられたかと舌打ちをした湊叶の足元から影。姿勢を極限まで低くした唯誓が湊叶に肉薄していた。近接攻撃もするのか。これが男相手だったら迷いなく蹴り上げていたが、一瞬躊躇してしまう。唯誓は腕を大きく斜め上へ薙いだ。なんとか大きく一歩後退出来たが、唯誓が持っていた鋭利な硝子は湊叶の顎から頬にかけて裂傷を与えた。お互いに距離を取り、睨み合う。湊叶が次の攻撃に移ろうと動いた瞬間、唯誓は酷く辛そうな表情を浮かべ──手元に出現させた硝子を硝子片で引っ掻きあの耳障りな音を発生させた。思わず手で耳を塞ぎ動きを止めた湊叶から最も距離を取る形で彼女が向かったのは公園内。彼女の意図に気が付き、短い怒声を吐きながら追ってきた湊叶には地面と水平になるよう出現させた硝子板を幾つか飛ばして牽制する。驚異の反射神経と異能により具現化した人並外れた身体能力でそれを避けた湊叶だったが、流石に移動速度は落ちてしまう。足を狙った硝子板を飛び越えたその先、ご丁寧に用意されていたのは一本の長さが二十cmほどある剣山状の硝子。咄嗟に炎を出現させることで爆散させるも、細かい破片に襲われた。目元を覆った腕の皮膚には小さな硝子が埋まったかもしれない。
 爆風が収まったのを感じ、警戒しながら目を開けた湊叶が視界に捉えたのは、うつ伏せに倒れている大助とその傍にしゃがみ込む涙目の華日、その前に仁王立ちする唯誓の背中だった。
 一瞬、世界が赤いフィルターを通したように見えたのは、頭に血が上ったからだろうか。そして、ああ。この身体の感じはスライムと闘ったときと同じだ。身体全体が熱い。けれど、不愉快ではなくむしろ一種の心地よさすらある。目を見開いた湊叶は唯誓に向かおうと地を蹴り──、直後失速。見事に墜落した。
 驚いたのは唯誓や華日だけではない、湊叶自身も同様だった。ガス欠ってこんなに急に来るものなのか、とピクリとも動かせない自身の指先を愕然と眺める。眼球を動かすのが精一杯だ。重力が何倍にもなったかのように感じる。聴覚も鈍くなっているのか、華日が自分の名前を呼ぶ声がとても遠くに聞こえた。
 
「湊叶くん!」
 叫ぶ華日を唯誓は苦々しい表情で見下ろした。大助の傍を離れるかどうか迷っているようだった。この場の脅威である唯誓自分は湊叶には背を向けている。この状況で無防備な大助を置いて湊叶に駆け寄るのは得策ではないと心得ているのだろうが──、ここまでぼんやりと考えた唯誓は華日の潤んだ瞳がこちらに向けられていることに気付く。哀しみ、疑問、怒り。唯誓がよく向けられてきた感情だ。思わず小さな笑みが漏れた。それは己を嘲ったものだったが、華日は勿論そうは受け取らなかった。ぎゅっと唇を固く結び、強い意志を持った目で唯誓を見つめている。
 張り詰めるような空気に割って入ったのは、長い息の音だった。息を吐いた大助はゆっくりと上体を起こすと、彼への心配の声を上げる華日越しに唯誓へ冷たい視線を送った。唯誓の表情が恐怖に強張る。じりじりと足音を立てて後退りまでした唯誓に、振り返った華日が不思議そうな表情を向けた。少しの間、唯誓は逡巡するように瞳を震わせたあと、身を翻して公園から立ち去る。
「あ、安土さん!?」
 唯誓の豹変ぶりに着いていけず華日は混乱した。すがるように大助に視線を送ってみるも、大助は寝ぼけているのかいつもより幾分ぼんやりした表情で首を傾げるのみ。よく分からないが、ともかく当面の危機は去ったようだと判断した華日は湊叶に駆け寄った。
 声をかけてみるが返ってくるのはうめき声のみ。こちらの呼びかけに反応しているようなので辛うじて意識はあるようだ。
「燃料切れって感じだね。桜庭のことはおれが背負うから、どこか休める場所に……」
「わたしの家、近いです!」
 大助の言葉を遮って、華日は家の方角を指差した。
 
 ◆◆
 
「ここが相馬の家か。白亜の邸宅といった感じだな」
「俺の家のがでけーし綺麗」
 朗と感想を述べる光汰に、不機嫌そうな重光が茶々を入れる。
「つーか、いきなり家訪問とか正気じゃねぇだろ。ガキじゃあるまいし」
 躊躇うことなくチャイムを押した光汰に重光が呆れ調子で言う。
「そうかな。もしかしたら親御さんの話も聞けるかもしれないだろう?」光汰はインターホンのカメラを見つめたまま答えた。
『はい』
 スピーカーから女性の声。
「こんにちは。突然すみません。ぼくたち大助くんの知り合いの羽澄光汰と申します──」
『ごめんなさい。大助は今、出ているの。本人に直接連絡したほうがいいと思うわ』
 至極正論が返ってきた。シンプル不審人物になってしまったかもしれない。後ろで重光が笑いを堪えていた。この反応はこうなることを分かっていたのだろう。挨拶をしてインターホンから離れた光汰は「だ、そうだ」といかにもな様子で宣う。
「連絡先知らねぇのかよ」
「むう。湊叶なら知っているかな。同じクラスだし」
「初めからそうしろ馬鹿、間抜け、カス」
 相馬宅から少し離れた歩道に座り込んだ重光が程度の低い罵声を光汰に浴びせる。光汰が「あまり良くない言葉だぞ」とスマホを操作しながら注意した。
「分かって使ってんですけどー」
「む。俺は別に傷つかないが、他人を傷つける可能性がある言葉を使うのは良くないな。それに言葉には魂が宿っているんだ。『言霊』と言うんだが……」
「うるっせぇな。お前ほんっっっと変わんねえのな」
 刺々しい声色で毒づいた重光は立ち上がると光汰を見下ろす。光汰はやはり重光の苛々を真正面から受け止めるようにじっと彼の目を見つめた。常盤色の瞳。重光が知っているものとは違うけれど、同じそれ。
「──おっと。早速湊叶から返信だ」
 不意に視線を落としたかと思えば、手元のスマホを表向ける。重光にもメッセージアプリの画面が見えるようにした光汰は湊叶からのメッセージを読み上げた。
「『相馬なら、一緒にいます』……えぇ!?」
「おー、さすがセンパイじゃん。バカとは違うな」
 思わぬ展開に驚く光汰と満足そうに頷く重光。光汰は「三笠の家にいるそうだ。向かってもいいか聞いてみる」と続けた。「どっか広いとこがいーんだけど。殴るんだろ」と重光が茶々を入れる。
「すぐに殴らない! しかし確かに三笠の家に向かうのは迷惑かもしれないな……」
 小さな画面を覗き込みながらやんややんやと騒ぐ大男二人。その様子はしっかり相馬瑠夏るかに見られていた。
 
 ◆◆
 
 目を覚ました湊叶は、自分がふかふかのベッドに寝かされていること、それからフローラルないい香りに包まれていることに気が付いた。
 喧嘩をして気を失ったことは何度かある。そのほとんどが最低の目覚めを伴うというのに、おかしい。異変だ。頭を働かせたいのに働かない。仰向けになったまま目を見開き、天井を見つめる。この天井には見覚えがあった。最後に見たのは中学生の頃──。
「三笠ぁ!?」
 がばりと跳ね起きる。ここには華日の部屋で、自分が寝かされていたのは華日のベッドだ。横を見るとローテーブルでお茶をしていた華日と大助が驚いた様子でこちらを見ていた。
「湊叶くん、よかった。回復したみたいですね!」
 両手を合わせた華日が嬉しそうに湊叶に駆け寄った。「あ、バナナ食べます? もし食べられそうならおにぎりも用意してるので言ってくださいね。はちみつトーストもすぐに用意できますよ。ゼリーもありますし……」
「お、おう。圧がすげえな」
 若干引きつつ湊叶が言えば、華日が「ごめんなさい……」と塩を振られた青菜のごとく小さくなっていく。
「桜庭が無茶してぶっ倒れるからでしょ。まあおかげであの子は三笠さんに危害を加えることなく撤退したけど」
 華日から手渡されたバナナをかじる湊叶は大助から気絶後のことを聞かされ、しかし苦い表情を浮かべた。
「あいつ……」
「安土さん、何だか様子が変でしたし、とても苦しそうでした。……もう赤い椿は見えませんでしたけど……。湊叶くん、おにぎり食べます?」
 バナナをぺろりと食べ終えた湊叶に華日が腰を上げる。湊叶は有難く頂戴することにした。華日が階下のキッチンへと向かい、部屋に大助と二人きりになる。正直気まずい。大助の方はそうでもないらしく、マイペースにクラッカーをつまんでいた。視線に気づいたようで「桜庭も食べる? 三笠さんお手製のジャムだって」と皿を湊叶に向ける。
「おう」
 ベッドから降りて手を付ける。早く華日に戻ってきて欲しい、と湊叶が心底思ったところで光汰からのメッセージに気が付いた。
「……相馬、お前探されてるぞ。会長に」
「えー?」
「三笠の握り飯食ったら会長んとこ行くからな。……何かしたのか?」
 語尾は一応上がり調子で疑問形の形を取っているが、殆ど断定するような湊叶の言い方に大助は少し不満そうに眉を下げた。「心当たりは、ちっとも」そう答えて手に残っていたクラッカーを口に放り込む。
「湊叶くん、お待たせです。おにぎりとお味噌汁温めていたら少し時間かかっちゃいました。……なにかありました?」
 おにぎりと新香の皿、豆腐の味噌汁の椀を乗せたトレイを湊叶の前に置いた華日は部屋の空気が先刻までとは違うことに気が付き、尋ねる。湊叶は「何でもねーよ。これ食べたら会長ンとこ行く」とぶっきらぼうに答えた。大助も柔和な笑みを浮かべて「おれも呼ばれてるみたいだから桜庭と一緒に失礼するね。お昼ご飯もご馳走様でした」と頭を下げた。
 黙々と食事を平らげた湊叶は「ごっそさん。美味かった」とトレイを手に立ち上がる。大助もそれに続いた。
 
 ◆◆
 
 光汰が待ち合わせ場所に提案してきたのは駅前のカフェだった。
「三笠さんとは小さな頃から仲が良いの?」
「あ? どうだっていいだろ。つーか、ちょっと後ろ歩くのやめろ」
「何か桜庭機嫌悪いし当たり強くて嫌だなー」
 大助は不愉快そうに唇を尖らせた。しかしやはりどこか軽んじたような態度が癪に障る。
「並んで歩いたら桜庭が嫌がるかなと思ったんだけど」
 大助の言葉に反応を返さずにいると真横に並ばれた。「仲良しみたいでさ」
「腕組んで歩いてるわけじゃあるまいし」
 鼻を鳴らした湊叶は路地から吹き出てくる室外機の排熱に眉を寄せた。瞬間、道路側から大きな衝撃を受け、湊叶は路地へ押し込まれる。たたらを踏んだものの、なんとか倒れずに持ちこたえた湊叶に次は容赦ない前蹴りが飛んでくる。対処しきれず、湊叶は路地裏まで転がった。
「てめ、何しやがる──……!」
 頭を起こして吠える。大助が通りへの道を塞ぐようにして立っていた。全く手加減なしの暴力を振るってきた大助はしかしいつものように穏やかな表情のままで、それを空恐ろしく感じた湊叶は息を飲んだ。対照的に大助は天気の話をするような調子で話し出す。
「桜庭はもう底が見えたから、次は餌になってほしいな」
 瞬間、湊叶は撥ね起きた。休んだとは言え、完全回復とは言い難い。今の挙動だけでそのことを思い知らされてしまった。異能は──、さっきのような突然のガス欠が怖い。ましてや万全ではない状態で使おうとは思えなかった。
「勝手に底見てんじゃねえよ! 青天井だっての!」
「あはは、おもしろいね」
 立ち上がった湊叶にゆっくりと近づく大助。その目元めがけて、湊叶は拾い上げていた小さな植木鉢を投げつけた。「わっ」と驚く声を背中で聞いた湊叶はスマホを取り出し、光汰との通話を開始した。待ち合わせ中ということもあってか、光汰からの応答は直ぐだった。
「すいません、ちょっとそっちに行けないかも──」
 頭上を影が通る。まさか、と湊叶の顔が引きつる。足を止めた湊叶を飛び越え、軽やかに着地した大助はやはり笑顔を湛えている。
「お前実は武藤と同類だな!?」
 湊叶が叫ぶと、途端に大助は笑顔を引っ込めた。「アレと一緒にしないでくれる?」言いながら腕を縦に振るう。ほとんど同時に湊叶の手からスマホが弾き飛んだ。撓った鞭のような何かが大助の腕から伸びていたことは辛うじて捉えることが出来た。
「……と! 湊叶!?」
 ビリビリと割れた音声。さっき手から弾き飛ばされたときにスピーカーモードになったのであろう、通話中の光汰の声だ。好都合とばかりに小さく笑んだ大助に、湊叶は薄気味悪いものを見る目を向けた。
「お前、一体何がしたいんだよ……!」
「今は桜庭を使って、怒らせた会長さんを呼び出そうとしてる。桜庭は身を以て実感してると思うけど、感情が昂ると能力が強化されてるでしょ? それを会長さんでも見たくなっちゃって」
「……つまんねえ奴。お前こそ底クソ浅えじゃねーか」
「人の趣味にケチつけないで欲しいなあ」
 再びへらりと笑った大助は腕を湊叶の首めがけて伸ばした。後ろに下がろうとするが、足元に転がっていた植木鉢にうっかり足を取られる。転倒は免れるも体勢は大きく崩れてしまった。喉に大助の手がかかる。気管を絞められた湊叶の顔が苦悶に歪む。
「適当に痛めつけといたほうが雰囲気出るから、ちょっとごめんね」
 湊叶の意識が飛ぶ寸前で大助は手を離す。酸素を求めた結果一気に息を吸いすぎてしまい咳き込む湊叶の脇腹を鞭状の何かが痛打した。痛みに悶え、腹部を抱え込むような体勢で動きを止める。半開きになった口から垂れた涎と血反吐が混じったものが地面に落ちて染みを作った。その間も湊叶のスマホからは光汰の声と一定のリズムを刻むノイズが聞こえている。湊叶を探して全力で駆けている証左だった。
「桜庭は愛されてるなあ。会長さんに一番護られてる存在かも知れないね」
 大助が感慨深そうに呟く。悪気無さそうな顔から発せられたその言葉に、湊叶は膝に置いていた拳をきつく握りしめた。不甲斐ない自分にどうにかなりそうだ。〝護られている〟。一番自覚しながら、認めたくなかったことだった。瞳が揺れる。
 言い返してこない湊叶に、大助は一瞬興が覚めたように表情を失くした。しかし直ぐにいつもの穏やかなそれに戻す。ほんの僅か、自分は桜庭湊叶に期待していたようだ。それも外れたようだったが。