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 重光に連れられて向かった場所は、光汰が小さい頃から「危ないから近づいては駄目だ」と口酸っぱく言い聞かされていた廃工場跡地だった。行政による立入禁止の看板を無視して屯する素行の悪い人間たちがいるからだと説明された記憶がある。そして、光汰が「誰も迎えに来ない可哀想な子」を辞め、「羽澄光汰」として生きることを決意した場所でもある。
 当時の記憶が自然と想起され、周囲をゆっくり見渡す光汰。チェーンの柵に付いている鉄板に書かれた「立入禁止」の赤文字はすっかり紫外線で劣化してしまってほとんど判読不可能だ。十年前から放置されたままでいるのか、と光汰は眉を下げる。そんな光汰の様子の変化を気取った重光が「キモ」と不快感を顕にした。何故悪感情を抱かれたのか理解できなかった光汰は「ここは、少し懐かしくて」と目を細めて自身の感情を説明する。
「俺が六歳、いや七歳の頃だったかな。当時の俺は武藤に負けず劣らず尖っていたんだ。だから施設を抜け出して、一人度胸試しに乗り込んだ。……あまりよろしくない人たちが集まっていると知ってね」
「うるせーな。独り言がでけーんだよ」
 光汰の昔話をばっさりと切り捨てた重光は、腰ほどにある柵を乗り越え、当然のように廃工場の中に入る。慌てた光汰が「俺を呼んでいる人物が中にいるのかい?」とその背中を追いかけた。古びた看板に咎められているような錯覚を覚える。
 敷地内から廃工場の中へ。と言っても十年もの間整備もされていない廃工場は殆ど外のようなものだった。雨を凌ぐには足るだろうが、一晩過ごすとなると厳しいだろう。そんなことを考えながら重光の背中を追っていると、不意に彼は足を止めた。光汰もそれに倣い、立ち止まる。周囲に視線を泳がせるも「光汰を呼んだ人物」らしき人影は見当たらない。
「どうしたんだい」
 それきりすっかり動きを止め、こちらを振り返ろうともしない重光。光汰は心配そうに呼びかけた。それでも全く反応がない。重光の肩を叩こうと近付いた光汰の視界の上端に不穏な影がよぎる。犀利なくろがねのように見えた。
「危ない──」
 鋭く叫んだ光汰が重光を押し倒す。自身の身体で重光の背中を庇う体勢になった光汰の足の方で「かつ、かつ」と短く硬い音が複数回聞こえた。起き上がった光汰が確認すると幅は五センチほど、厚みは二〜三ミリ程度に見える刃物、ちょうど三徳包丁の刃部分のようなものが五つほど切っ先を下にして地面に突き刺さっていた。てらてらと光るそれは恐ろしく切れ味が良さそうに見え、光汰は重光を守れたことに安堵した。
「夏休みになってから頭上から何かを降らされることが多いな。ヘルメットを買ったほうがいいだろうか」
 術者の姿は見えない。事前に設置されていた罠か、術者が様子を窺いながら隠れているのか。辺りに最大限の注意を払いつつ、「武藤。俺に会いたい人物というのは、俺にいい感情を持っていない人間かな?」と重光に尋ねる。重光なら「そーだよ」とげらげら笑いながら答えたとしてもおかしくはないが、返事はない。
「武藤?」
 聞き返しながら重光の方を振り返る。重光はジッと光汰を見据えた後、右足で中段蹴りを繰り出してくるではないか。「むう」と唸った光汰は腕でそれを弾いて防ぐ。一旦距離を取った重光は笑みを湛えて再び躍りかかる。また、先程と同じ中段蹴り。どこか悟ったような表情をした光汰は重い打撃を加えるはずの足を両腕で絡め取ると、膝を極めながら重光を地面に引き倒した。もがく重光だったが、関節を極められている痛みには敵わないのか、すぐに大人しくなった。光汰が息を吐く。
「うむ。それで用は何だ? 武藤の形の真似をしてまで、俺に伝えたいことがあったのだろう?」
「は? 何言ってんのか分かんねー」
 重光が叩きつけるような口調で言う。光汰は困ったように「うーん」と首をひねる。
しらを切っているのか、成りきってしまっているのか……。頭を少し小突けば気が付くだろうか」
 神妙な顔をして吐くにはあまりに短絡的な台詞だ。湊叶がいればきっとツッコミを入れただろう。光汰本人は浮かべている表情通り大真面目で(本人からすれば冗談や脅しのつもりなど毛頭ないので当然なのだが)、拳も握りしめている。〝重光〟は光汰の小突き・・・の威力を知っているのか、舌打ちをすると「そうです、俺は武藤重光なんかじゃありません」と吐き捨てるように言う。途端、彼の輪郭がぼやけたかと思うと星憑きの能力が解除されるときに現れる霧のような微粒子に全身が包まれる。次の瞬間には、全くの別人が光汰に膝を極められていた。灰がかった水色のロングストレートと雀斑そばかす面。暗い青色の目はぎょろぎょろと忙しなく動いている。やや痩せ型で身長は百七十センチ程度に見える。十五、六才だろうか。
「ふむ。変身能力か。化けられるのは人間の形だけかい?」
 正体を表した男の身体を拘束から解くと、光汰は訊ねた。フンと鼻を鳴らした男は「触れたことがある人間なら変身できる。赤ん坊とかは無理だけど。動物は……気持ち悪くなるから出来ない」と自身の能力を詳らかにする。ここまで丁寧に説明してくれるとは予想外だ。平静を努め、光汰は会話を続ける。
「じゃあ武藤とは知り合い──」
「違う! 中一の頃、ぶん殴られたんだ! あいつの腰巾着みたいなチビを小突いただけなのに、そりゃもうめちゃくちゃに!」
 頭突きでもする勢いで光汰に近づいた男は刺々しく喚いた。僅かに仰け反り、男との衝突を回避した光汰は「なるほど」と返した。
「じゃあ俺にも変身できるのかい」
「変身用のデータがなくなるから嫌だ。いくつかストックして置けるけど、お前をコピーしたら今のところ一番古い武藤のデータが消える。武藤に変身すると武藤の身体能力が手に入るから失くしたくない」
 いやに丁寧に自身の能力を説明してくれるな、と思って話を聞いていた光汰は後半の言葉に引っかかりを覚える。意外そうに目を瞬かせた光汰は「……本当か?」と訝しげに眉をひそめた。振る舞いにもぎこちなさはあったが、それ以上に『重光にしては力が弱すぎる』のが偽物だと看破できた大きな理由だったのだ。
 光汰の不審そうな口調を自身の能力に恐れをなしたものだと勘違いした男は得意げな笑みを顔全体に浮かべた。幼さが残る顔立ちに無邪気な笑顔が加わると最早小学生に見えてくる。性格も素直そうであるし、もしかしたら彼は小学生くらいの精神なのかもしれない。
「へへへ。今の佐波沼は龍行の奴らが調子乗ってるって聞いたけど、全然大したことないな!」
 少し引っかかる言い方に光汰はこっそり眉を上げた。
「その言い方だと、最近まで佐波沼を離れていたかのように聞こえるがそれよりも。龍行の生徒たちは図に乗ったりなどしていないぞ。まあ全体としての調子は良い。みんな素晴らしい人間だからだ。多士済々とはこのことだよ」
 愛する者の話をすると高確率で話が脱線してしまう光汰を前に、男はやや困惑した様子で「それで、何」と確認するように訊いた。こほん、と光汰は空咳をする。
「……しばらく佐波沼から離れていたのかい? 何か、のっぴきならない事情でもあったとか」
 星憑きが佐波沼から出るには大変煩雑な手続きと厳格な審査をクリアする必要がある。長期間ともなれば審査にかかる時間も膨大だろうし、おそらく担当者による定期観察が科されたはずだ。
 ニヒルに口元を歪めた男は「離れてはいない。施設に閉じ込められていただけ」と吐き出すように答えた。
「ふむ……? 市井の噂話を鵜呑みにしているようなことを尋ねるが、もしかして総能研かい?」
「そうそうそう。大正解」
 うんうんと首肯を繰り返す。そしてパッと軽やかに立ち上がると、腕を真上に伸ばし、右手の人差し指をぴんと天に向けた。左手は腰に当て、ヒーローか何かのようなポーズを取った彼は「久しぶりのこの娑婆で、この春日井かすがいほのか、一花咲かせて魅せましょう」と朗々と謳い始める。一瞬唖然とした表情を浮かべた光汰を見据えた春日井は「そして俺達は総能研によって組織された選ばれし星憑き、SDRs」と不敵に笑うのだった。
 一見格好良く決めたように思えるが、組織名のせいか締まりの悪い口上である。光汰はとりあえず「うむ」と頷いた。

 ◆◆

 カラン、とグラスの中の氷が音を立てて崩れた。
「羽澄先輩、遅いね」
 大助がスマホから顔を上げて呟く。突然話しかけられた湊叶は殆ど反射で「あ?」と喧嘩腰に聞き返した。さすがに理不尽だろうかと反省した様子の湊叶はバツの悪そうな顔で「……遅いな」と外の方に目を遣る。光汰が外の騒ぎを聞いて飛び出してから、もう十分ほど経つだろうか。談話室にいるのは変わらず大助と湊叶のふたりだ。騒ぎはとっくに落ち着いたようだが、光汰は戻っていない。湊叶の視線の先には光汰が置いていった彼のスマホがある。
「ボケッと待ってるのも鬱陶しいし、ちょっと出てくる」
 言いながら腰を上げた湊叶はすたすたと部屋の外に出て行く。湊叶が後ろ手に閉めた扉の向こうから「みなとにーちゃん見っけェ!!」と男児の大声が聞こえた。続けざまに幼い足音の群れがこちらに向かう音。湊叶は小さい命に好かれるんだな、と大助は目を細めた。
 馴染みのない場所でただ待ちぼうけるのもつまらない。しばらく光汰の育った場所を見学し、それでも戻って来ないようなら一言連絡を入れて帰るとするか、と小さな怪獣たちが遠ざかっていくのを耳で確認した大助は園内を探索することにした。
 西瓜やアイス、浮き輪の折り紙があちこちに飾られている。ここは共用スペース兼比較的年齢の低い子どもたちが過ごす棟のようだ。施設案内図を流し見する。奥には年長者の住居棟があるらしい。
 今朝、通に今日の予定を訊かれたので答えると「まさか施設を襲うつもりじゃ……」などと言い始めたので軽く絞めておいた。人を何だと思っているのか。可能性の塊こどもたちを無駄に消費するなど愚の骨頂だ。そもそも光汰とは『約束』がある。
「おにいさん、こんにちは」
「こんにちは」
 廊下で向こうから来た七歳くらいの女の子から丁寧な挨拶を頂戴した大助は同じように立ち止まり微笑み返す。嬉しそうにはにかむ少女は「あのね、きょうね」と話を始めた。姿勢を低くして「うん」と相槌を打ちながら聞いている大助の後ろから「ひまり!」と咎めるような声が響く。
「あ、あきよちゃん」
 ひまりと呼ばれた少女が視線を大助の背後に送る。あきよと呼ばれたやはり七歳くらいの少女は、暢気な笑顔を浮かべたままのひまりとは対照的に険しい表情をしていた。
「この人に話しかけちゃ駄目っ」
 あきよは大助には目もくれず、ひまりに手を差し伸べた。こっちに来させようと必死のようだ。それぞれ真反対の態度を取る小さな女の子ふたりに挟まれ、大助は困ったような表情を浮かべて腰を伸ばした。顔の下で女の子二人のやり取りは続く。
「どうして?」
「どうしても!」
 急かすようにあきよは伸ばした手を上下に振った。ひまりは眉を下げ、あきよと大助を交互に見比べていたが、しばらくのちあきよの手を取る。
 申し訳無さそうな──、いや、捨て犬のような瞳でこちらを見上げてくるひまりに、大助は穏やかな笑みを返した。
「それじゃあお友達と仲良くね」
 ひらひらと手を振って二人と別れる。二人の会話は背中越しに拾えたが、納得していない様子のひよりはしかし、あきよの勢いには勝てないようだった。
 どうしてだか、ある種の動物に酷く嫌われる気がする。そんなことを思いながら探索を続けていると、後ろから肩を掴まれる。あちらはこちらを嫌うくせに、やたらと関わってきたりするのだ。
「どうしたの桜庭」
 振り向きながら言えば、想像通り“ある種の動物”の厭そうな顔が待ち構えている。
「なーに、勝手にうろついてんだよ」
「おれだってつまんないし」
 どうせ何を返しても批判的に取られるのだから、一つも取り繕わず正直に返した。「桜庭は子どもたちから逃げてきたの?」
「逃げ……撒いてきたんだよ」
「桜庭は小さな子どもに好かれていいね。おれは微妙なんだよな」少し不満げに言う大助。
「別に良いもんでもないだろ。しかし、子どもは見る目あるんだな」湊叶はからかう調子で返した。
 自身らもまだ『子ども』の枠であることを棚に上げて話す彼らの後ろから溌剌とした足音が近づいてきた。これが光汰のものであるとすぐ分かる自分に呆れながら湊叶と大助はそちらに身体を向けた。
「ふふ、仲良くなったかい?」
 いかにも喜ばしげな表情で光汰がふたりに視線を送っている。もう反応するのも面倒なふたりは光汰の斜め後ろに視線を遣った。ギョロ目で童顔の少年が不躾な視線をこちらにぶつけていたのだ。
「彼は春日井ほのか。SDRsの一員だと言うので連れて来た。さっきの騒ぎも彼だ。驚いたが、彼は武藤に変身できるんだよ」
 光汰が紹介すると湊叶と大助の反応を待たず、春日井は光汰の前に躍り出ると視線を落とし、手で口元を覆った。かっこうのいいポーズである。それを湊叶は呆れ顔で、大助は愉快そうに春日井を見守る。
「まーた変なやつ拾ってきたんすね」
「変なやつとは失礼なやつだな! ハゲ!」
「あ〜〜〜、こいつ武藤に変身したら見破れねえな。精神年齢一緒じゃん」
 睨み合う湊叶と春日井。光汰が「帰りにコンビニでアイスを買ってきたんだ。食べながら話そう」と談話室の方向を指さした。

 談話室のテーブルの上に置かれたコンビニの袋をがさがさと探る春日井を横目に、湊叶は「それで、こいつの目的ってなんだったんですか」と光汰に尋ねた。本人に訊くより効率的だと思ったからだ。
 奴が武藤に変身して光汰を誘き出し襲撃しようとしたが苦も無く返り討ちにされたところまでは聞いている。
「彼が彼自身のテーマソングを歌い出すから聞いていたらすっかり懐かれてしまったんだ。『見逃してやる』って言うからお礼をしたいと言って連れて来た」
 というのが現在までのあらましらしいが、それを聞いた湊叶は椅子から転げ落ちそうになった。何なんだ、こいつ。湊叶にどう思われているかなど露ほどにも気にしていないであろう春日井は目当てのアイスを袋から取り出し嬉しそうな声を上げている。
「目的、というほどの目的はなかったようだよ。俺が龍行高校のトップだと聞いて実力を測りに来てくれたらしい」
 少し耐性が付いていたので流石に転げ落ちることはしなかったが、背もたれから少しだけずり落ちてしまった。光汰は一瞬春日井に視線を送ると、少し声を落として続ける。「どうも彼は結構な間、総能研に収容されていたみたいなんだ」
 頭一つ分くらいずり落ちたままの姿勢の湊叶が「異能で暴れすぎると総能研にれられるって噂、マジだったんすね」とぱちぱちと目を瞬かせた。光汰が頷く。
 変身能力なら悪用もし放題だな、と納得してから瞬間移動で悪戯三昧な由瀬通とか触手で暴れまわる相馬大助のことが頭に浮かび、総能研も適当なもんだな、とため息を吐いた。湊叶の脳内を知ってか知らずか、大助が一瞬こちらに視線を寄越した。
「そうだ! 羽澄光汰! 五月女くんが認めればオマエも俺たちの仲間にしてやってもいい!」
 アイスを食べ終えた春日井は、びっ、と音が聞こえてきそうな勢いで光汰に人差し指の先を突きつける。光汰はわずかに怪訝の色を見せながら聞き返した。
「さおとめくん?」
「そ! 俺たちのまとめ役」
 その答えに目を見開いた光汰は身を乗り出す。重光を「勧誘」したという人間の名前と同じだ。
「へえ。それは是非会ってみたいな」
 自身らのリーダーを褒められたと思った春日井は得意そうな顔で「早速聞いてみるな!」とスマホでメッセージを送っていた。どうもこの男は相手の反応を自身に都合よく取る癖があるようだ。光汰からすれば助かるが同時に無垢過ぎやしないかと心配にもなる。総能研の環境は想像されているより良いのだろうか。それとも、矯正された結果なのだろうか。
「五月女くんは忙しいから、すぐに会ってもらえなくても落ち込むなよ」
 顔を上げた春日井から謎の励ましを貰い、光汰はにこりと笑った。ずり落ちた姿勢のまま短い乾いた笑いを漏らした湊叶は、大助の様子をこっそり窺う。こちらのやり取りには興味がないのか、カップアイスをゆっくり食べていた。
 湊叶の中でひとつ気にかかるのは、星憑きの解放を謳うSDRsが星憑きを管理する側の総能研によって組織されたという点だ。それも──これは春日井だけかもしれないが──その点を隠そうともしていない。
(単に考え無しのアホって線も全然濃いんだよな)
「なあそこの眼鏡! アイスちょーだい!」
「いやだよ」
 大助ににこりと一蹴され、不服そうに頬を膨らませる春日井を見ていると考えている自分が滑稽に思えてくるのだった。