3-7

 実際のところ、@hope_nowhereとか言う奴が動画で人を襲っていた触手の主であろうがなかろうがいつひにはどうでも良かった。やり取りをしているとすぐに出て来られると言うので「じゃあ」ととんとん拍子に話が進んだだけだ。光汰には事後報告でもするつもりだったが、たまたま見かけたので事前報告になってしまった。
 湖岸緑地公園は名前通り湖岸に面した緑の多い広場である。気候が心地よい時期の休日には一定間隔でデイキャンプのテントが張られている様子が観測できる。
 木陰に設けられていた岐志湖を一望できるベンチに座り、いつひはスマホを取り出した。重光はいつひと背中合わせになるようベンチの背もたれに腰を下ろす。周囲を見渡すと、大樹の影でスマホと周囲と交互に視線を遣っている人間を見つけた。重光はその人物から視線を外さずに、いつひの頭をつついた。いつひが不満そうな顔でこちらを見上げてくるので、やはり顔を動かさず件の人物をそっと指差した。いつひはしばらくその彼を観察したあと「おかしいな……。あんな生徒、龍行に居たっけ……」と眉間に皺を寄せた。寸の間考えてから、メッセージを送る。
【髪長くて下の方で纏めて柄シャツ着てる?】
【多分俺であってる】
 即返信レス。いつひはぴょんと軽快にベンチから飛び降りると彼の元へ駆け足で向かう。柄シャツの男もいつひに顔を向けた。暗い橙色をした髪と深い青色の瞳。
「なんか描いてた人物像とは随分違うなあ。もっとこう、眼帯してたりゴテゴテ装飾の十字架持ってたり包帯巻いてるひとが来ると思ってた。あ、ごめん、ボクは賀川。キミがコメントをくれた動画の投稿主でーす」
「お〜、初っ端から飛ばしてくるね、いつひちゃん・・・・・・
 けらけら、と男は笑った。いつひの表情が僅かに強張る。後ろからゆっくりと近づいていた重光は少し歩幅を大きくした。
「俺は五月女泰人さおとめやすと。後ろのデカいのは武藤だね。よろしくー」
 重光が自身の斜め後ろに来たことを目の端で確認したいつひが口を開く。
「ねえ、キミってほんとに龍行のひと?」
「龍行じゃないけど、異能はホンモノだ」
 軽薄な態度で五月女は答えた。五月女の輪郭が揺れ、そこから黒いものが滲み出る。それはあっという間に無数の触手となり、五月女の傍で蠢いた。いつひが重光に目配せをすると、いつになく察しの良い重光が「あー、俺の足に絡みついてきたのもこんな感じ」と返す。
「じゃあキミ、龍行に不法侵入もしてるってことになるじゃん。重罪だよ」
 背中にイソギンチャクを飼っているような見た目の五月女は正直見ていて愉快なものではない。後退りしながらいつひは五月女を指差した。代わるように重光が前に出る。
 指を差されながらもやはりふわふわとした態度は崩さなかった五月女だが、不意に表情を消すと「いつひちゃんは、俺に会って何がしたかったの?」と硬い声色で尋ねた。あまりに纏う雰囲気が一気に冷え切ったので、いつひはくしゃみをしてしまった。
「別に、何がしたいってわけでもないけど。好奇心だよ好奇心」
「『薬』について調べていたのも?」
 五月女はいつひだけを見て、一歩進む。
「うん。あ、ボクのこと『いつひちゃん』って呼ぶのやめて。気持ち悪い」
 いつひは半歩下がりながら、拒絶の手のひらを五月女に向けて突きつけた。五月女は目を眇める。
「『好奇心は猫をも殺す』って諺、知っ──」
 鈍く、骨が軋む音。程なくしてそれなりの質量を持ったものが地面に落ちる音。
「ごちゃごちゃうるせぇな」
 拳を振り抜いた姿勢の重光が鬱陶しそうに呟く。いつひが「ねえ、気絶させてないよね?」と迷惑七割、心配三割くらいの声音で尋ねた。心配というのは、気絶してしまうといつひの計画に遅れが出てしまうからである。重光が答える前に、五月女が身体を震わせながら上半身を起こす。いつひの視界の端で重光が大変誇らしそうにしていた。
「知らなさそうだな! お前らに教養とか無さそうだもんなあ!」
 震えは怒りによるもののようだった。前髪を雑にかきあげ、露わになった見開かれた目で五月女は重光を睨みつける。すぐに地が出てきたな、といつひは呆れたように鼻で笑った。
「おー、その教養とか言うの教えてくださーい」
 重光はけらけらと笑いながら、五月女との距離を一気に詰める。大上段からの踵落とし。隙が大きい、舐めきっているとしか思えないような攻撃。五月女は短く唸りながら身を捩ってそれを回避する。それから背中から生やしたイソギンチャクの一本を伸ばし、大木の天辺に引っ掛けると逆バンジージャンプのように一気に飛び上がった。手頃な枝の上に器用に着地した五月女は重光といつひを見下ろす。
「キレちゃってごめんごめん。俺は優秀な人材をスカウトしに来たんだよね。うん、その血の気の多さ、攻撃力、申し分ない!」
「そういうの武藤くん全部断り続けてるんで! 断ります!」
 いつひが地上から叫び返す。気分はマネージャーである。
「それじゃあ力付くでも俺達の力になってもらうまで!」
 イソギンチャクが激しく蠢くと、いつひ目掛けて一気に放たれた。それと同時に木の根元で衝撃。みしみしみし、と怪音が続く。五月女は自分の足元が傾いてきていることに気が付いた。
「……うそだろ」
 五月女が短く呟いた言葉は大木が倒れる轟音に掻き消された。地上で大騒ぎしていたいつひの声も同様に掻き消されていた。土煙と草木の破片が舞う中、重光は五月女と倒れた大木を見下ろす。
「『猫もめっちゃ高いところから落ちると死ぬ』って諺、知ってるか?」
 意趣返しのつもりなのか、得意顔である。すぐにいつひの蹴りが重光の脛にヒットした。
「そんな諺はない! いや滅茶苦茶し過ぎでしょ! 五月女くん以外に巻き込まれた人がいないかとか、っていうか絶対総能研来るよ!」
「あーはい、大変反省しております、はい」
 ぎゃんぎゃんと騒ぐいつひに鬱陶しそうに耳を塞ぐ重光。「せめて態度と言葉は一致させろ!」といつひが脛への蹴りを繰り返した。そんなやり取りをしているうちに辺りの土煙は随分落ち着いてきた。いつひは目を細め、背伸びをして五月女の安否を探る。
「いた!」
 とび跳ねるようにして五月女の元へ向かういつひを重光が呆れたように追う。五月女は仰向きで倒れているが、胸は静かに上下している。身じろぎせず、どうやら気絶しているようだった。そのことを確認したいつひは「それじゃ……御暇おいとましますか」と呟く。重光の消化不良そうな顔に予想通りの反応だとでも言いたげな視線を送ったいつひは「総能研が来るって言ってんでしょーが。どーせまた機会あるよ。今は騒ぎが大きくなる前に退散して一旦全部五月女くんに押し付けたほうが得策でしょ」と重光の手を引く。
「それに怒って絶対ボクらのところ来るんだから」
 目を細めたいつひは、こちらに駆けつける光汰の姿を遠くに見ながら呟いた。
 
 ◆◆
 
 少し暑さが和らいだ日の午後。大助による怪我が殆ど全快した湊叶は喫茶店の一角で光汰と会っていた。
「相馬はもしかしたら、二重人格ってやつじゃあないのかな」
 整った顔の男が突拍子もないことを神妙な面で宣い始めたため、湊叶の口からはほとんどネイティブ発音の「huh?」がまろび出てしまった。こほん、と小さく空咳をした湊叶は光汰に改めて聞き返す。
「え、っと……二重人格?」
「ああ」
 光汰はやはり真剣な表情をしていた。「調べたんだが、解離性人格障害と言うのかな」
 言いながら光汰は鞄から本を何冊か取り出した。どうやら思いつきで話しているわけではなさそうだ。が、しかし。湊叶は半ば呆れ顔で光汰の説明を遮った。
「あの、あいつのは単に化けの皮が剥がれたっていうか、そういうのだと思うんスけど」
「そうかな……。相馬はあんな冷たい目をするひとだって、どうしても俺は思えないんだ」
「俺は結構納得できますけどね」
 湊叶は手元のクリームソーダを啜った。長靴のような形のグラスに入れられた鮮やかな緑色がしゅわしゅわと爽やかな音を立てる。光汰は少し不満顔のままデニッシュパンの上に聳えるように盛られたソフトクリームをスプーンですくい取り、口に運んだ。
「まあ、会長が割と真面目に言ってるみたいなんで、その本は軽く目を通します。絶ッ対違うと思いますけどね」
 最後の言葉に力を込めた湊叶は光汰から本を受け取る。
「つか、本人に聞いてみたらどうです?」
「もちろんそのつもりだ。その前に湊叶に話を聞いてもらいたくてな。俺の考えを整理するために」
 相馬が頭を抱えながら「くっ、もう一人のおれ、出て来るな!」とか言ってたらそれはそれで面白いかもしれない、などと思い始めた湊叶が適当に提案すると、頷いた光汰はスマホを取り出した。「あれ、相馬の連絡先知ってたんすか」意外そうに湊叶が訊けば、大変得意げな表情をした光汰が「ああ。この間の騒動のあと教えてもらったんだ」とトーク画面を見せてくる。光汰が一方的にメッセージを送っているのかと思いきやそうでもないようで、双方のやり取りの量はよくあるトーク画面に見えた。意外だ、などと思っている湊叶をよそに光汰は大助に話したいことがある旨を伝えるメッセージを作成する。
「ふむ、二十分ほどでここに着くそうだ」
「えーっ。ここに来るんすかぁ。俺は帰ります」
 嫌悪感を隠そうともしない湊叶は残りのクリームソーダを一気に飲み干した。大助にこっぴどく打ちのめされている湊叶を無理に引き留めることは出来ない、と光汰は思うものの──。
「あ、通捕まえられたんですぐ来ちゃいました」
 にこにこ顔の大助が二人の席のすぐ横に立っていた。
「お前ら仲良いな……」
 苦い顔をした湊叶が吐き捨てるように呟いた。
「まあ、一年の頃から一緒だし、それなりに馬が合うからね。桜庭、隣いい?」
 詰めて、と大助は二人がけソファの通路側に座ろうとする。湊叶は不承不承ながらに腰を浮かして奥にずれた。机の上の書籍を一瞥した大助が訝しげな視線を光汰に送る。
「羽澄先輩の志望校って心理学系とかですか? にしても気が早いと思いますけど」
「俺の進路には関係のない本だ。相馬に聞きたいことがあって、その予習……みたいなものかな」
 大助が目をぱちぱちと瞬かせると光汰は「『多重人格』って聞いたことあると思うんだが」と切り出し、持論を述べ始めた。大助は変わらずぽかんとしている。そりゃそうだろうな、と湊叶は横目で彼を見た。
「それで、仮におれが多重人格者だったとして、先輩はどうしたいんですか?」
 話を聞き終えた大助が真正面から光汰を見据え、訊く。試すような姿勢も感じられない、単なる質問のように聞こえた。雑談のようで、全く他人事のような態度にも取れた。
「相馬がそれで困っているなら、力になりたい。それに制御できないのだったら、周りのみんなを傷つけることになるだろう」
 光汰はやはり真っ直ぐな視線を返す。
「まあ、そうだったとしておれが頼るべきはズブの素人のアンタじゃなくて精神科医だと思うんですけど。あと、この前おれ約束したじゃないですか」
 注文したコーヒーが届き、それを静かに啜った大助は淡々と答えた。自分との約束を疑っているのか、と不満そうな視線に光汰は眉を下げる。
「俺もそう思うっす。こいつ絶対困ってないっすよ」
 湿っぽい視線を送った湊叶が大助を指差すと、不躾な仕草に大助が不快そうに眉間に皺を寄せた。
「俺と戦っていたとき、途中で能力の質が豹変しただろう? 俺はそこが引っかかっていて」
 光汰の言葉に大助の眼鏡の奥にある瞳が僅かに揺れたように見えた。初めての反応だった。
「そうでしたっけ。何にせよおれは困ってないので羽澄先輩に相談することもありません。ま、今回も斜め上で面白かったですよ」
 しかし微かな変化もほんの一瞬。大助はいつもの笑みを浮かべる。落第生に慈悲をかけるような笑いだな、と横で見ていた湊叶は胸糞が悪くなった。
 
 しばらく他愛もない話をした後、大助は時刻を確認し「これから予定があるので」と腰を浮かした。「急に呼び出して悪かったね」と光汰が小さく頭を下げると「いえ」と大して気にしていなさそうに首を振って返す。
「じゃ、失礼します。桜庭もまたね」
 手を振って挨拶を寄越した大助に、湊叶は不機嫌そうな顔で応じた。
 大助が立ち去ってからしばらく、貝のように黙り込んでいた湊叶は突然「っあー!」と我慢していた息を大きく吐くような声を上げると机に突っ伏した。ごん、と額がぶつかる音がする。驚いて目を見開いた光汰に向けて、湊叶は「無理っす。俺、あいつ無理っす」と掠れる声で呻いた。
「結局会長の質問に答えねーし」
「センシティブな話だったからな」
 うん、と鹿爪顔した光汰は深く頷く。湊叶が「え゛」と顔を歪めた。
「会長の中で相馬多重人格説まだ続いてるんすか」
「本人からはっきり否定されたわけじゃあないからな」
「…………まあ、何を考えるかは自由ですもんね。思想・良心の自由っす」湊叶は息をくと「そういやこの前、武藤が大木蹴り倒したじゃないすか」と堂々巡りの話題を切り替えた。
「ああ、とんでもない音がしたな。俺たちが駆けつけたときにはもう武藤は居なかったが……武藤の足も心配だ」
「まあまあ話題になってるんすけど、なーんか今回は外野まで騒ぎ始めたっぽくて」
 湊叶はそう言うとニュース記事の画面を光汰に向けた。日付は一週間ほど前、『国指定特区佐波沼の危険な実態とは』などというセンセーショナルな文字が踊っている。光汰は目をぱちぱちと瞬かせた。以前からこういう記事は定期的に沸いていたので大して珍しいものでもない。光汰個人としては佐波沼はそう危険な場所ではないよ、と担当ライターに教えてあげたいと思っていた。とは言え、予備知識のないひとがナビゲーターも無しに飛び込み旅行するには刺激が強い街かもしれない、とも思う。
「記事はいつもの感じなんすけど、コメント欄っす」湊叶はげんなりした様子でネットユーザー同士で勝手に燃え上がるコメント欄を見せた。ランダム生成の英数字ユーザー名からパーソナリティを窺うことは出来ないが、文面から察するに佐波沼市民と市外の人間で埒のあかない論争を繰り広げているようだった。「で、アフィブログにまとめられるっていう」
「こういう人々はすぐに飽きて新しい漁場を探すって賀川が言っていたな」
「会長って結構たまにおっさんっすよね。言動」
「む、頻繁なのか偶になのか、一体どっちなんだい」
 そもそもさっきの言葉におっさん要素あったかい!? といやにしつこい光汰をあしらい、湊叶は続けた。
「で、ちょっとばかし騒ぎになったせいで佐波沼に『自治組織』作るやつが出てきたみたいなんすよね。この前の保見とか言うやつの周辺も『能力者解放戦線』? 名乗ってたじゃないっすか」
「ああ。真の目的は賀川の──、他にあったようだが」
 言葉を濁し、光汰は頷いた。
「それ引き継いだらしいっすよ。その『SDRs』とか言う組織」
「エス・ディー・アールズ」
 光汰はたどたどしく湊叶の発した固有名詞らしき単語を繰り返した。「どこかで聞いたことのあるような響きだ」
シンSダストDレジスタンスRs、の頭文字らしいっす。公式ページとSNSもあるんでかなり世界観作り込むタイプの組織っすね」
「ダストっていうのは」
「星憑きのことを流星に喩えてることからみたいっす。ネーミングセンスが大変よろしい感じで」
 真顔で棒読み口調の湊叶。こうしないと笑えてしまってまともに話せそうにないのである。簡単な説明を終えた湊叶は一息つく。
「サイトとSNSのリンク送っとくんで覗いてみたらどうっすか。暇つぶしにはなるんじゃないすかね」
 湊叶の言葉が終わるが早いか、ぽこん、と光汰のスマホから短い通知音がした。