3-8

 かち、かち。
 廃病院の一室。軽い音が無骨な黒い塊から響く。鵜原から拝借した拳銃の安全装置を上下させる音である。
 ──大きさの割にやたらと重みを感じるのは、これが命を奪う道具だからだろうか。月並なドラマなら、こんなモノローグが入りそうだ。寝不足気味の頭はつまらないことを考える。トトは拳銃を構えると、ワークチェアを半回転させ、正面の空間に銃口を向けた。瞬間、たいへん間の良い男が銃口の先に現れるではないか。想定していない事態だが特に問題もない。トトが眇め見る先で、溢れんばかりのドーナツが入った紙袋を両脇に抱え、口にもドーナツを咥えた彼は間抜け面で銃口としばし見つめ合った。
「え……っと、これ、本物?」
 問いかけにトトが頷けば、通は「ギャッ」と短い悲鳴を上げ、口から零したドーナツを残して姿を消した。この間、十秒足らず。いつも通り『勝手に』騒がしい彼に呆れたトトは椅子を元のように机に向け、拳銃を机の抽斗ひきだしに無造作に片付けた。それからしばらくタブレットで過去の実験データを見直していると、背後に気配が出現したのを感じた。
「もー! びっくりさせるなよな!」
 直後に喚き声の文句。トトは小さい溜息を吐くと「全部通の一人相撲でしょ」と言い捨てる。目線はタブレットから微塵もぶれないままだ。
「んぐぬぬ」
 言い返したいのだろうが言葉が見つからないのだろう。苦しげな音を漏らしてから、通は先ほど落としたドーナツを「……三秒ルール適用範囲」と呟いて拾った。とうに三秒は過ぎているだろう、と呆れるトトの背中側ではむぐむぐと通がドーナツを頬張る音が聞こえる。暫しの間静かになったかと思えば、「あ!」と突然大声を出す。鬱陶しくなったトトが睨みながら通の方に顔を向けると、ひらめき顔をした通が「この前の刑事さんの銃か!」と拳で手を打ってから人差し指を立てた。いかにも名推理、とばかりに得意満面である。
 この男が『瞬間移動』という力を持っているのは、この残念な頭を哀れに思った天からの贈り物なのだろう。トトがげんなりとしているのを通は口元の甘い食べかすを拭いつつ不思議そうに見ていた。それから少し背伸びをしてトトの机の上を窺い見る。タブレットの画面には通にはよく分からないグラフと数値、数式が映し出されていた。見られていることに気が付いたトトが「賀川いつひと羽澄光汰について考えていたんだけれど」と表示されている画面とは全く関係のない話を始める。通は画面と話には相関があると思い込んだだろう。
「賀川いつひには髭右近の強化済み異能すら通らない。それどころか髭右近に多大な負荷が返ってきて廃人になってしまった。賀川いつひは自称『無能力』らしいが、その信憑性は五分五分といったところだな。能力の発現に気付いていない、もしくは隠している。そうだ、羽澄光汰の能力を知っているか? 恐らく『他者の血液を経口摂取することで超回復と身体能力の超強化』と言ったところだ。脅威ではないが、近距離で殺さないように相手するのには骨が折れる。ああそうだ! 感覚器官にも強化は適用されるのかどうか気になるな。うっかりしていた」
 ここまで通の反応をちっとも気にすることなく一人で喋り終えてしまったトトは勢いよく立ち上がる。
「あっ、今から会長んとこ行こうとしてるだろ!」
 口の中のドーナツを慌てて飲み込んだ通が叫ぶ。トトは思考が盛り上がるとすぐさま実行に移そうとする癖があり、それには多大な犠牲が伴う。その上、犠牲となるのは無辜の民である。今なら「夏休みで賑わうショッピングセンターに光汰を招き、その眼の前で市民を襲撃させる様子を見せて怒らせよう。襲撃に使うのは八草と保見辺り」辺りのプランがトトの頭の中で練られたところだろう。
 通の指摘に頷いたトトは「連れて行ってくれるのか?」と通に手を伸ばす。それに目をやったものの受け入れることはせず、通は首を横に振った。
「トト寝てないだろ! ちょっと落ち着いてからのほうがいいと思うぜ」
 自身の下瞼をなぞり、トトに睡眠不足を認識させる。まばたきをしたトトは寸の間固まると「なんで通にそんなこと言われなきゃなんないの」と不機嫌を顕にした。まずい。初手から失敗した。乾いた唇を下で舐め、視線を泳がせながら「や、完全にテンションが徹夜明けのそれだったから……」と乾ききった喉から絞り出すように答える。阿るように上目でトトを見れば、先程までの上気した様子はとっくに消え失せ、通に注がれるのは冷めきった視線だ。
「あ、う」
 何か取り繕う言葉を探すも失敗し、音にすら成り損ねたような声が通の口の端から漏れる。瞬間、息が出来なくなった。頭が状況を理解する前に、首の辺りに痛みを感じる。喉──気管を鞭状の異能で殴打されていた。ふらりと後ろに倒れる身体を触手で巻き取られたかと思えば、あっという間に天秤責めの格好になっていた。
「その通り。つい寝食を忘れてしまったおれは、すぐに機嫌を損ねるってことも通なら分かっていると思ったけれど」
 涙を滲ませ、せめてもとばかりに足をばたつかせる通だったが、緩慢な動きで近づいたトトの睥睨を受けて途端に萎縮し動きを止めてしまった。噛み締めすぎた唇は青紫色になっている。トトの触手に腹部を舐めるように触られ、喉のあたりまで嘔気が迫ってくる。しかしここで吐いたりすればますますトトの逆鱗に触れてしまう。吐き気を我慢したせいで涙は目から溢れそうになるし、鼻汁も垂れる。何としても水分を出すぞという粘膜の気概を全身で感じている通の視界の中心で、唐突な轟音とともに部屋の壁が崩壊した。
「うぇ!?」
 幸いなことに驚愕で通の吐き気は引っ込んだ。代わりに素っ頓狂な声が飛び出てくる。トトは煩そうに崩れ落ちた壁を見遣った。そこには影。人にしては少々ずんぐりむっくりとしているような──いや、そもそもめちゃくちゃデカくないか──。通がそんなことを思った直後、その丸みを帯びた二足歩行のシルエットは弾けるようにトトと通の元へ飛んできた。まるで弾丸だ。
「ゴム人間!?」
 トトの機転で拘束を緩められていた通は瞬時に異能を使い、一旦部屋から脱出する。直前まで通が居た場所に突っ込んできたのは巨大な熊だった。ゴールネットに突き刺さるサッカーボールよろしくトトの触手に引っかかり、ほんの僅か動きを止めたもののすぐに弾き飛ばしてしまう。壁にぶつかりひびを作った熊はゆらりと立ち上がりその巨体をトトのほうに向けた。
「襲撃は久しぶりだ。助かる」
 トトの言葉を有り体に訳するなら「カモがネギ背負ってきた」である。街の星憑きをトトが捕まえるのに後ろ盾こそ存在するが、あまりやりすぎるとその盾から小言を食らう。鵜原も処理してしまったこともあるし、そろそろ後ろ盾からつつかれそうだなとうんざりしていたところだった。そんな折に自ら足を運んでくれるなんて有難い存在である。
「獣化した星憑きは家山動物使いの使役対象になるのかな。本人の認識次第だろうか」
 呟きながらトトは熊に向けて触手を伸ばし、腕で薙ぎ払われる直前に形状を剃刀に変化させ、首を狙う。動きを止められたら生死はどちらでも構わない。どうせ少し遅いか早いかの違いだからだ。喉笛を掻っ切るつもりだった異能の刃は、肉を捌く確かな感触を残した直後、その肉に埋まり動かなくなった。
「おっと」
 目を瞬かせたトトに感情の読めない獣の真黒な目がじろりと向けられる。続いてトトが生成したのは大きな斧。埋まった剃刀刃を起点にして伸びた触手の先に造られたそれは熊の首の後ろに鎌首をもたげるように聳える。断頭台を想起させるそれが振り下ろされる寸前。熊が身を丸めたかと思うと、肩の辺りの硬い被毛が逆立つ。剣山。否、ヤマアラシか──。否否。それよりも凶悪なものだった。
 逆立った太い被毛はトト目掛けて撃ち出されたのだ。流石星憑きの能力である。出鱈目だ。反応しきれなかったトトに針の雨が降り注ぐ。
「い゛ぎッ」
 急所への被弾は免れたものの、肩と腕、それから左目に針が突き刺さった。後ろに数歩よろめいたトトに熊の重い腕が振り抜かれる。遠心力を使った残酷なまでの暴力はトトを直撃した。壁を破壊し、トトの身体は廊下に投げ出される。
「トトっ!」
 身を隠していた通がトトの傍に現れ、寄り添うと能力を行使する。二人が姿を消してからやや遅れて廊下にのそりと姿を現した熊はきょろきょろと周囲を見渡し、標的がいないことを悟るとその獣化を解いた。筋骨隆々な体躯は細かな粒子となり空気に溶けていく。露わになった星憑きは爪を尖った歯でがじがじと齧っている小柄な少年だった。ボリュームのある薄クリーム色の癖毛をヘアバンドで大雑把にまとめているため、眉と額に寄せられた皺が不機嫌を浮き彫りにしている。
「なんだよ、雑魚じゃね〜〜か」
 少年は苛々をぶつけるように壁を蹴りつける。今回は生身だったため、鳥海新志ちょうかいあらしは痛みに悶絶する羽目になった。しばらく片足で辺りを飛び跳ねた後、大きなため息を付いてからスマホを取り出す。「さおとめ」の文字列をタップし通話に応じた相手に対し「逃げられた!」と大声で一言告げるとスマホを片付ける。きっと相手は今頃耳を押さえて耳鳴りに苦しんでいるだろうと思うと少しだけ胸がすく。
「な〜〜にが『星憑きの間でも随一の能力』だよ。全然じゃん。ザッコ雑魚じゃん」
 余程に業腹なのか、鳥海はトトの根城を荒らし回りながらぐちぐちと恨み言を呟く。廃病院は妙な瓶詰めだったり怪しい機械(人に装着できそうなそれ)だったり素人目からでも医療廃棄物と分かるものまで種々様々なアンタッチャブルが転がっていた。医者ごっこか科学者ごっこでもしてたのかよ、と呆れながらそれらを雑に破壊していく。目に付くものを大方壊し終えたところで鳥海はその場に座り込んだ。唐突に飽きが来たのである。そんな鳥海の足元で「こつり」と軽い音がした。彼が音の方向に顔を遣った瞬間、閃光が彼の視界を覆い尽くした。続けざまに轟音、爆風、衝撃。
「ばーか! くたばれ、熊野郎!」
 非常に低レベルな罵倒を頭の隅で認識しながら──鳥海は意識を保つことは出来なかった。

 トトから託された爆弾を鳥海に直撃させた後、通は再びトトの元へ舞い戻った。廃病院とは別のアジトである。そろそろ拠点を変える、とトトが宣言したのが一週間ほど前。既に引越し作業は殆ど完了していたので、タイミングのいい襲撃だったとも言える。トトの受けたダメージは甚大だが。
 マットレスの上に倒れ込んだトトは通の得意げな顔を眇め見ると肩に突き刺さっている針を一気に引き抜いた。びたびたと血液が溢れ、落ちる音。通は顔を歪めた。
「おれは痛いのは嫌いなんだよ」
「だったらもう少し丁寧に抜くとか……うっ」
 眼に突き刺さっていた針も同じように引き抜く。水風船の中身の如く、血液が吹き出す。防水シーツを敷いていたマットレスの上には瞬く間に血のプールが出来上がった。脳にまで達していそうな負傷だというのにどうして平気で動き、喋っているのだ。白い顔を向ける通にがらんどうの眼窩を指差し、トトは笑った。「通には悲報だろうが、おれは死ねないんだ」先に抜いた針を合わせ、三本束ねた針を片手で弄ぶトトの前で通は口をもごもごと動かし、何か言いたげにする。しかし言葉が出てこないようだった。
「さて、通」トトは酷く穏やかな声で呼びかけた。あまりに場違いな声色に通は一瞬呆けてしまう。「さっきの熊にはどんな最期が似合うと思う?」
 あ、めちゃくちゃ怒ってる。
 通を苛んでいた複雑な感情はすべて吹き飛び、今はただ、眼の前のトトに恐怖する一心に支配されていた。

 ◆◆

 自宅玄関のドアを開けると、軽やかな甘い香りが鼻をくすぐった。焦がしバターのふくよかな香りにいつひは居ても立っても居られず、靴を履き捨てるとキッチンへと小走りで向かう。
「これ! アンリのフィナンシェだ!」
 キッチンに顔を出すや否やいつひは叫ぶように言った。視線の先にはフィナンシェを皿に盛り付けているあさひの姿。傍らには大きめのマグカップになみなみと注がれたカフェオレと濃い目にれたコーヒー。いつひの分とあさひの分だ。
「おかえり、いつひ」
 手元から顔を上げたあさひが薄く笑う。「はい、ただいま」と応えたいつひは食器棚から取り出した木製トレーにカフェオレとコーヒー、コースターを二枚を乗せ、ダイニングテーブルへと運ぶ。キッチンを背にする席にあさひのカップを置き、その向かいに自分のマグを置いてそのまま席に着いた。いつひのカフェオレはいつひの好み通り、牛乳と砂糖が多めに作ってある。足をぶらぶらさせて待っていると、少しして、フィナンシェの皿を持ったあさひもやってきた。
「いつひ、このお店の焼き菓子、特に好きだったものね」
「うん!」
 どうしたの、このお菓子、と尋ねようとしたのをどうにか飲み込む。どうせ『信者ひつじさん』から貰ったの、と返ってくるに違いない。けれど、訊かなければいつひの中では真相は箱の中に置いて見ずにいられる。もしかしたら、あさひが自分で買ってきたものかもしれないし、はたまたもっと確率は低いにせよ、父親によるものかもしれないのだから。
 さくり。フィナンシェの心地よい食感とバターの豊満な味がいつひの口の中で広がった。

 母子水入らずのお三時を終えたいつひは、自室のベッドにうつ伏せに飛び込んだまま暫くその姿勢で身動ぎしなかったが、ようやくゆるゆると顔を横に向けてスマホの画面を確認した。光汰からメッセージが来ていたのでまずその通知を開く。
 【何か変わったことはないかい? 】
 なんだそりゃ、といつひは口の中だけで呟いた。変わったこと。いつひは【ないよ】と打った文字列を送信する指をはたと止めた。BSバックスペースキーを長押しし、【この前、変な組織に勧誘された】と打ち直して送信する。【ボクじゃなくて武藤くんが】。続けて送る。すると既読が付くのとほとんど同時に光汰から着信。
「その組織『SDRs』などと名乗らなかったか?」
「組織の名前は知らないよー。いや、そもそも組織とかそんな仰々しいもんじゃないかもー。俺達の仲間になれ! 的な。断ったけど。ボクが」
「ふむ」
 受話口からでも光汰の思案顔が目に浮かぶ。
「あ、名前は教えてくれたよ。五月女泰人くんだって」
 通話を続けながら、いつひは『SDRs』について調べる。すぐに彼らのものらしきSNSのアカウントが見つかった。
「龍行の生徒ではないな。一時的に属していたこともない」
 光汰が即答する。
「その五月女くんって、ボクの動画にコメント残してきた人だったんだよね。羽澄くんにも言ってたでしょ? 自称触手の能力を持った人に会ってくるって」
 それから簡単に泰人とのやり取りを伝える。
「ふむう……。保見や異能強化薬の件が少し落ち着いたと思ったら、今度は武藤を狙う不埒者か」
「武藤くんが不届き者だけどね」
 いつひが皮肉っぽく呟くと「少し話が脱線するが」と断って光汰が尋ねる。「賀川はどうして武藤と仲良くしているんだい? いや、賀川の交友関係に口出しをするつもりはないが──」
 重光と一緒に行動することで、巻き添えになったりとばっちりを受けたりすることだって一度や二度ではないはずだ。いつひに付き合えるのが重光だけという訳でもなし、そもそも重光と仲がいいからという理由で距離を置かれることもあるだろう。それでも尚、重光の傍にいるのは当人たち以外からは見えぬ理由があるのだろうか。
「武藤くんはボクがいないと駄目になっちゃうもん」
 光汰の話を遮って、いつひは淀みなく言い切った。同様にいつひの瞳は硝子玉のように澄んでいる。
「そうか。随分と失礼な発言をしてしまった。謝罪する」
「別にいーよ。結構訊かれるし。武藤くん、理不尽な暴力さえ無ければまあまあ面白いんだけどなあ」
「それは概ね同意する。俺も武藤のことは好きだ」
「う〜〜ん。武藤くんが羽澄くんのこと苦手なの分かるなあ」
「もちろん、友人としての『好き』だ。他意はないから安心してくれ」
 これで大真面目に話をしているのだから、厄介もいいところだ。どんどん話が変な方向に転がって行ってしまう。桜庭くんはよくこんな人と付き合ってるなあ、といつひは胸の内で呟いた。なんだか急に疲れたので光汰との通話を切り上げることにする。
「はいはい。それで、用件はもうおしまい?」
「ああ。くれぐれも気をつけて過ごしてくれ。何かあればすぐに連絡して欲しい」
「はーい。羽澄くんも気をつけてね。それじゃ」
 通話を終え、いつひはふうと息を吐いた。武藤くん。何が起ころうと絶対にボクの味方で、ボク以外の世界とボクを天秤にかけたとしてもボクに傾くひと。
 なんだか無性に声が聞きたくなって、いつひは重光に電話をかける。呼び出し音がしばらく続き、もう切ってやろうかと思ったところでやっとそれが途切れ、「なに」と無愛想の極みのような声がスピーカーから響く。
「別にー。なんとなく」
 口元を緩ませながらそう答えれば、直後「ぶつっ」と小さな破裂音がして通話が終わる。黒い画面に「終了しました」と白い文字が並んでいた。まったく、いつもの武藤くんだ。