2-7

 学園祭二日目は予定より規模を縮小して開催されることになった。八草たちの襲撃にショックを受け体調不良を起こしている学園祭実行委員や一般の生徒が複数人いるそうだ。重光が保見の腕を千切った様子が最前線以外の生徒らに見られていなかったのは良かったことなのだろう。あの光景は、重光の蛮行を見慣れているいつひでも流石に少し戦慄した。
「最悪」
 緊急ホームルームを終え、早足で帰宅したいつひは言いながら自室のベッドにかばんを叩きつけた。スプリングでかばんが大きく跳ね、いつひの顔にぶつかる。くぐもった悲鳴と共に仰向けに転がったいつひはもう一度「最悪!」と喚いた。
 今度は床にかばんを叩きつけると、いつひは床を踏み鳴らしながら母親のいる和室へと向かった。一枚、二枚と襖を乱暴に開け放ち、五つ開けたところでやっと母親を見つける。何も置いていないだだ広い和室、水がめを挟んだ向こうにいつひの見知らぬ中年女性が不安そうな顔で座っていた。いつひの母親、あさひにアドバイスを貰いに来たのだ。馬鹿らしい。
 いきり立った自身の子どもを見たあさひは「あらぁ」と間延びした声を上げた。頭に直接響くような、鼓膜にまとわりつくようねちっこくて妙に蠱惑的な彼女の声がいつひは昔から大嫌いだった。
「あんたのせいでボクの学校の学園祭めちゃくちゃだよ!」
 感情に任せていつひは叫ぶ。あさひは「だめよ、そんな大声出したら」と柳のような態度でいつひを諫めてから、相談者に「ごめんなさいねえ」と一言謝ると、水がめに汲まれた水面を見つめた。何事もなかったかのように彼女のライフワークを再開したのだ。
「っ、あんたに、全財産持ってかれたって言う人の息子がっ」
「保見さんねえ。健斗くんにも会ったことあるけど、あの子誤解してるの。だって、保見さんはまだ来てくれるから」
 うっとりとしたような目。いつひはいつもここで話をやめてしまう。話が通じないから。話すだけ時間の無駄だから。こんな人間が母親だと認識したくないから。
「あんたが誤解を解かないから、ボク、学校であんたのことを晒し上げられて」
 いつひのことをじっと見つめていたあさひの目から、はらりと涙が溢れた。途端にいつひは口ごもってしまう。親を泣かせてしまっているのだ、と誰かに責められているような気分になる。圧倒的におかしいのは相手のはずなのに。
「あの、あまり、あさひさん……お母さんに酷い言葉をぶつけちゃだめよ」
 不意にあさひの相談者がいつひを諫める。何で見ず知らずのお前に勝手なことを言われなきゃいけないのだ。いつひが睨みつけると相談者はおどおどと下を向いた。
「違うの、わたしの伝え方が悪いから、あの子はまだ理解してくれないだけ。あの子は悪くない。でも、正しいことを臆することなく伝えられる和子さんはとても素敵」
 あさひに語りかけられた相談者は瞳をうるませ、「あさひさま」と呟く。恍惚めいた瞳。いつひは吐き気がした。今日もダメだった。
 
 ◆◆
 
 家に帰ると、門の前でスーツ姿の男女が六人、どこからともなく現れて重光を取り囲んだ。重光が怪訝な表情を作っている間に大型のバンも静かに横付けされる。そのうちのひとりが、ずかずかと無遠慮に近付いてくると重光の鼻先に首から下げているカードホルダーを突きつけた。『総合能力開発研究所 矢祭山遥』とある。重光が彼の所属と名前を確認し終わったと判断するとカードホルダーを胸ポケットに仕舞った矢祭山は「では、ご同行ください」と重光をバンへと手引する。
「は? 嫌」
 重光がその手を振り払ったと同時、門の中からサングラスを掛けた背広の屈強な男たちがぞろぞろと出てきた。インカム、前を開けたジャケット、いかにもボディガードである。
「坊ちゃまに何か」
 男たちの中で唯一小柄な人物がサングラスを外しながら矢祭山に尋ねる。一見穏当そうな口調だが、目はちっとも笑っていない。矢祭山は彼を一瞥すると「関係者以外には話すことは出来ません。守秘義務がありますので」とぴしゃりと言う。
「いやいや」男は笑った。「わたしは重光様の専属ボディガードですので。まあ、そんなことを貴方に言っても屁理屈で返されるだけでしょうから、重光様に直接お聞きしましょうか」
「重光様、この方達の御用は聞かれましたか?」
 重光は首を横に振った。まさにお坊っちゃま仕草である。
「となるとこれは誘拐と判断してもいい事案──」
宮之阪みやのさか!」
 門の方から鋭い声。びくり、と小柄な男は体を震わせた。慌てたように振り向いた宮之阪の目に映るのは、途方もない美貌の男性だった。
 陶器のように滑らかな白い肌、目鼻立ちは彫刻と見紛うほどに整っている。涼やかな目元を宮之阪から矢祭山に移し、現武藤家当主武藤修輔は「わたしはその子の保護者です」と硬い声色で告げる。矢祭山は観念したように緊張を解いた。
「武藤重光さんが、本日午後二時頃に他者の腕を損壊──端的に言いますと千切ったという話を聞いたので、これは星憑きの能力の濫用に当たると判断し本人に詳細を確認するために伺いました」
「能力使ってねーって」
 苛つきを隠さない重光が話に割って入る。矢祭山が疑いの目を向けた。「常人が異能で強化された腕を引き千切れるとでも?」
「出来んの。俺には。あ、あとアレ絶対正当防衛ってやつだから。お前じゃなくて警察呼んで、けーさつ」
 息子と略取未遂の集団をしばらく黙って見比べていた修輔は、ゆっくりと瞬きをしたのち、「そうしましょう」と宮之阪に目配せする。ほぼ同時に宮之阪は武藤家と懇意にしている警察幹部へと連絡をしていた。矢祭山は面白くなさそうに顔を歪める。
「分かりました。今日のところは引き上げます」
「一生来んな〜」
「他の公的機関とも仲良くしておいたほうが何かと役に立ちますよ」
 舌を出した重光と皮肉っぽく笑う修輔に一瞬忌々しげな視線を送った矢祭山は部下たちと共にバンに乗り込んで去っていく。
「旦那様、総能研に釘を刺すと高木本部長の言質が取れました」
「ありがとう。さ、重光ちゃん。今日は陳さんを呼んでいるわ。何かリクエストはある?」
「豚がとろとろのやつと肉団子」
「もう、重光ちゃんったら可愛い!」
 矢祭山と相対しているときとは一転、修輔は甘い声で言うと重光に抱きつく。頬ずりしそうな修輔を重光は掌で制止した。
「シャワー浴びる」
 
 ◆◆
 
「えっ、総能研が来たの」
 いつひの問いかけに重光は「おう」と仏頂面で答えた。不機嫌の矛先は総能研である。
「武藤くんの馬鹿力がおかしいのは昔からなのに……。そんなこと気にしてる暇があったら阪くんの失踪とか上春くんとか髭何とかくんのことを調べたほうが絶対いいよ。あ、最近話題にならないけどあの触手の動画とか」
「消えたからな」
 重光は校舎の壁にもたれかかりながらぼやいた。遠くでホイッスルと歓声が聞こえる。体育祭である。出場種目の合間、人を応援するという質でもない二人は校舎の影で休んでいた。本来は保護者や外部の人間も観戦に来られた体育祭だが、昨日の襲撃の件を受け一切禁止となっている。学校敷地へ入る門は固く閉ざされ、警備員も配置する厳重体制だ。いつひの家族はどうせ誰も来やしないのでどうでもいい話だったが、校外の知り合いが行くと言ってくれていたのでその点は少し残念でもある。
「動画の投稿主と接触コンタクト取ろうとしてるんだけど、無視されちゃってるしさあ」
「そりゃあのキモ触手にとっくに絞められてんだろ」
 どうでもよさそうに重光。続けて「そろそろ天下分け目?」と聞いてくるのでプログラムを確認したいつひが「そだね」と答えた。
「んじゃ行くかぁ」
 ぐるぐると両肩を回しながらウキウキとした面持ちで重光は体を起こす。それを呆れた表情で見上げたいつひは「武藤くんって天下分け目とか棒引きとか綱引きとか大好きだよね」と呟いた。
「おう、好きだ。イッヒーは全部下手だから仕方ないな」
「こけろ、カス!」
 いつひは最大級のあっかんべえ顔を重光に送った。
 
「うおーっ、一団一年の武藤、強すぎる〜! まさに無双〜!」
「わ、さむ」
 重光から遅れること五分。ジュース片手にグラウンドにやって来たいつひは、耳に飛び込んできた放送部の実況に茶々を入れた。まあどうせ武藤くんが棒と人を千切っては投げ、千切っては投げしているのだろうと瞥見すればやはりその通りだった。本人は勿論たいへん楽しそうだ。いつひ的には審判をしている湊叶が重光の僅かな反則も見逃さんとばかりに血眼で睨んでいるのを眺める方が面白い。
 それを分かった上で、重光はギリギリ反則でない動きをしているのだからいい性格をしている。いつひはプログラムを確認した。次にいつひと重光が出る種目は団対抗綱引き。これも武藤くん無双なんだよなぁ。いつひは口の中でぼやいた。
 重光の異能を教えてもらっていないいつひだが、強化系ではないことは知っている。だというのに、強化系の能力を持った星憑きにさえ重光は当然のように力で勝つ。何なら相手が筋力自慢であればあるだけ力で捻り潰してやらんとしているきらいがある。
 その唯一の例外が光汰だ。能力を使った光汰にだけ、重光は純粋に力負けをした。
 いつひは再びプログラムに目を落とす。重光の一団と光汰の四団はお互い順調に勝ち進むと決勝で当たる。
「やはり武藤には凄まじいものがあるな」
「うわっ。急に後ろに立たないでよ、びっくりするなあ」
 いつひが膨れ面で振り向いた先には満足そうに笑う光汰の姿があった。
「武藤と決勝で闘うのが楽しみだ」
「げ。もしかしてわざと?」
「プログラムや組み合わせは俺の管轄外だ」
 にかり。光汰は歯を見せた。いつひは「あっそう」とつまらなさそうに小さく息を吐く。光汰の冗談は分かりにくい。
 この会話から半刻後。熱気渦巻くグラウンドの中心にいるのは光汰と重光の二人だった。一方は菩薩の如く柔和な笑み、かたや他方は般若の如く苛烈な表情で向かい合っている。綱引きのセオリー通り、一番力の強い者としてそれぞれの団で殿を務めた二人である。重光擁する一団のメンバーが「光汰にキレている重光の前は怖すぎる(意訳)百人力の重光が居れば、自分たちが居なくてもいいのではないか(意訳)」と学園祭実行委員会に直談判した結果、特例として一対一の綱引きが認められることになったのだ。
「さあ、体育祭も終盤を迎えたところでまさかのショータイム、一騎打ち! これは四月の因縁を……ゴホン、不規則発言失礼しました。龍行一の力自慢が今まさに! 決まろうとしているぞぉ!」
 乗りに乗った放送委員が騒ぎ散らかしているのを重光は煩そうに睨んだ。光汰は「四月の因縁……何のことだろうな」と神妙な顔で呟く。重光の口元がぴくぴくと痙攣するように動いた。
「何でも忘れちまうお前らしいな」
「む。忘れん坊と言われたことはないぞ」
「……名前も何もかも忘れちまった奴がほざくなよ」
 瞬間、空気がひりついた。光汰が重光に向ける常盤色の瞳は、凍えるような冬の寒空を思わせた。だが、それは次の瞬きで嘘のように消え失せる。そして光汰はこれ以上この会話を続けようとはせず、「さあ、始めようか」とグラウンドに置かれた綱を持ち上げた。歓声が上がる。舌打ちをした重光も気怠げな態度で綱を手に取った。
 盛り上がるギャラリー集団とは少し離れたところでいつひはしゃがみ込んでいた。完全にヒーローvs悪役の構図である。いつひはつまらなさそうに親指と人差し指の先を擦り合わせた。普通ならヒーローの大勝利となるところだろうが、幾度となくヒーロー気取りを返り討ちにしてきた実績のある重光だ。その上、異能を使っていない光汰相手なら単純な力では重光に分がある。それを光汰も理解しているはずなのに、堂々と受けて立つ姿勢がまさにヒーロー然としていて、いつひには厭だった。
「──いざ尋常に……」
 緊張しているのか、微かに震える声で審判の体育祭実行委員が腕を上げた。ルールは単純明快、綱を自陣に曳き込んだ方の勝利。目印となる綱中央の赤いリボン目掛けて、審判の腕が振り下ろされた。
「勝負!」
 グラウンドを踏みしめる音、綱が伸び切る音、呼吸音。短い音のあと、状態は膠着。がっちりと綱を両腕で掴んだ光汰と、対照的に片手で綱を持っている重光。
「まーたしょうもない意地張ってる」
 唇を突き出したいつひがぼやいた。
「さすが武藤だ! びくともしないなあ」
 にこにこと笑いながら光汰は言う。重光の額と綱を持つ右手には青筋が浮かんでいた。片手で一気に片をつけてやるつもりだったのに。見誤ったか。このままじりじりと消耗戦など柄ではない。
「でも、どうせなら全力を出して発散したらどうだい? 武藤くらいの暴れん坊だと、なかなか全力を出す機会もないだろう」
「お前、それ計算なのか天然なのかどっちだ」
 重光が睨む。光汰は質問の意図が分からないのか、困ったように笑った。深読みしてしまう自分が馬鹿らしくなって、重光は力のギアを一段階上げた。半歩、重光の方に綱が動く。観戦する生徒たちがどよめいた。しかし再び、膠着。重光から忌々しげな舌打ちが漏れる。
「ふふ、さすがに腕一本では勝たせてあげないぞ」
 光汰はまだ笑顔だ。もともと挑発に弱い重光が、不倶戴天の相手からの挑発を堪えられるはずがない。頭に血が上った重光の手は咄嗟に綱を取っていた。そして、一気に引く。先ほどまでとは桁違いの力で引かれ、光汰の身体は危うくたたらを踏みそうなくらいにぐらついた。しかし超人的な体幹を持ってして、光汰は敗北寸前で耐え抜いてみせた。綱の中心を指すリボンは重光の陣地を表す白線のすぐ近くまで引き寄せられている。光汰の表情に僅かな焦りが見えた。勝ち誇ったように口の端を吊り上げて笑った重光は、じわじわと甚振るかのようにゆっくりと綱を引き寄せる。固唾を飲んで見守る生徒ら。奇跡の逆転劇は果たして起こることはなく、ゆっくりと重光側に引かれていった綱は遂に重光の陣地へとリボンを運んだ。
 審判がホイッスルを鳴らす。決着の合図だ。生徒たちが落胆のため息を吐く。冷めた表情をしたいつひが怠そうに身を起こした。四団の生徒たちからの視線を感じたが、いつひは構うことなく重光の方へ向かう。光汰に小学生並みの悪口を投げつけ、舌を出していた重光はこちらに向かってくるいつひに気が付くと、一転とても誇らしげな表情を見せた。褒められるのを待つ犬みたい、という感想を抱いたもののおくびにも出さず、いつひは「おつかれ」とだけ伝える。当てが外れ、当然重光は至極不満そうである。
「武藤くんの出番終わり?」
「あ? そだけど」
 不服顔の重光が答えると、いつひは「じゃあボクそろそろ帰ろっかなあ」と零した。重光が意外そうに目を開くのを見て、いつひは確信する。重光は、いつひが今、彼と出会った頃のような立場になっていることを分かっていない。
「イッヒーはこーゆーの最後まで楽しむと思ってた。俺も帰るからちょうどいーけど」
「……いつもならね」
 少し非難めいた視線を重光に送ると、不思議そうな顔が首を傾げた。はっきり言わないと分からないのだろうけど、とてもじゃないが今は重光に話す気分ではなかった。
 昨日、保見がいつひの母親のことを大声で喚いたせいで、いつひは今朝からクラスの面々から距離を置かれている。話しかければ応じてはくれるものの、相手に会話を続けようとする意思がない。ほとんど無視に近いものだった。
 頭にきたので煽り倒してやろうかという気持ちが燻ったが、昨日の母親とのやり取りが思ったより精神に来ているらしく、その火は意外にも小さくすぐに消えてしまった。
「腹いてぇの?」
 重光がのろのろと帰り支度をするいつひを覗き込んで問う。
「武藤くんの心配の引き出しって腹痛しか無いよね」
「人が悲しくなンのって腹痛いときくらいだろ」
「人間観どうなってんの」
 乾いた笑いをこぼしながら、いつひは外の様子を窺った。体育祭が続けられている。華形である選抜リレーは大変な盛り上がりようだ。ちょうど湊叶と通がデッドヒートを繰り広げているところだった。
「せんぱいえ〜」
 茶化したような声色の重光がいつひの後ろから窓の外を覗き込んで言う。
「由瀬くんがちゃんと速いのも面白いよね。能力にかまけてそうなのに」
 なんとはなしにいつひが呟くと、重光が不愉快そうに顔を歪めていた。
「あ、武藤くんからかわれたんだっけ。由瀬くんに」
「あいつきらーい」
 他人の机を蹴りつけてから廊下に出る。呆れ顔で机を直したいつひがそれを追う。
「ねえねえ、武藤くん」
 前を通った人を問答無用で蹴り付けそうな雰囲気の重光の腰にいつひが手を回す。あの性格でいてスキンシップが少ないいつひの突然の行動に驚いた重光が「は?」と声を上げる。直後、不意に頭に靄がかかったような感覚に陥る。気がついたときにはいつひは重光の身体から離れていた。
「保見くんのこと、とっちめに行こうよ。場所はもう分かったからさ」
「あー? 別にいーよ」
 どうでもよさそうに答えながら、重光の頬は楽しそうに緩んでいる。避けられてしまってから保見を苦しませても何の解決にもならないが、まあ多少の溜飲は下がるだろう。いつひは重光を見て思った。