2-8

「イッヒー、たまに妙な情報網駆使してくるよな」
 街中を行きながら重光が呟く。先を行っていたいつひが半身で振り向くと「まーね。ボク、武藤くんとは逆で頭脳派だし」と笑った。手にはフライドポテトとハンバーガーがある。お腹が空いた、と手頃な店でテイクアウトしてきたものだ。
「頭脳派かぁ……?」
 わざとらしく腕を組み首を傾げる重光。いつひは不満げに鼻を鳴らした。半分ほど食べ進めたハンバーガーを齧りながら先程の視界を思い出す。保見の後ろに見えたのは、馬に乗った武将の銅像。佐波沼駅東口前だ。そして、保見の視線の先にあったのは飲食店や何かの事務所などが入る雑居ビル。古く、汚く、いかにもな・・・・・外観をしていて、一般的な感覚の人間はまず立ち寄ろうとは思わない建物だ。入っている店でぼったくられたという話も聞く。
「武藤くんが中学生の時に遊びで乗り込んだ、駅前の雑居ビルあるでしょ」
 そう言いながら重光の反応を窺うと、いつひの予想通り一ミリもピンときていない様子だ。
「多分保見くんたちはあそこに集まってる」
「へー。何で分かんの」
「長年の勘、ってやつ」
 今度はくるりと体ごと重光に向けて、いつひは目元を指さして見せる。「イッヒー、前向かねーとあぶねーぞ」と子どもに言い聞かせるように言われ、いつひは不服そうに口を尖らせてから身体の向きを元に戻した。
 
 例の雑居ビル──、棚橋ビルディングに辿り着く。夕刻の駅前とあって人通りはそれなりにあるが、棚橋ビルに入ろうとする者はいなかった。
「明らかに日陰者御用達って感じだもんね」
 いつひがせせら笑いながら、臆することなく入り口の扉を開ける。重光が「イッヒー、今日はなんか珍しいな」と僅かに目を細めた。いつひが重光をけしかけることは珍しくはないことだが、その現場にまで付いてくることはそうない。
「今回は特別だよ。もうホントむかついてんだから、保見くんには」
「どんだけ怒ってても名前にちゃんと『くん』とか『さん』って付けるイッヒー偉いな」
 滅多にしないことまでやったんだから、とか何とかぶつぶつ呟いているいつひに重光が適当な言葉をかけると、白眼が返ってきた。
 薄暗く、狭苦しい廊下が続いている。一階に入っているのは個人経営のカフェやバーのようだが、形だけで溜まり場になっていそうである。さて、問題はここからだ。視界で確認できたのは保見が棚橋ビルに入ろうとした場面まで。足を止めたいつひに、重光が「どーすんの? 一個ずつ潰す?」と宣う。
「そんなことしなくても、折角ボクがいるんだから。ボクがいるって分かれば、保見くんは出てくるんじゃないかな」いつひは不敵に笑った。重光が複雑そうな表情でいつひに視線を遣る。いつひを餌にするのが気に入らないのだ。それが本人の申し出であってでも。
 そんな重光の心中を知ってか知らずか、いつひはくるくると回りながら「この辺に保見くん来てたりしないかなぁ!」と大声をあげる。一階に入るテナントからは芳しい反応はない。軽く息をいたいつひは軽やかな足取りで廊下を走り抜け、階段を駆け上がった。それを大股で追い抜いた重光がいつひの前に出る。目を丸くしたいつひの上空を異形の腕が通った。
「あ、保見くんだ」と思うよりも早く、肉と肉が打つかり合う鈍い音。果たして吹き飛んだのは奇襲をかけてきた保見だった。
「マザコン野郎、お前さあ、デカいだけだよな。殴りやすくて助かる」
 階段の踊り場の壁に保見の巨体を叩きつけた重光は楽しげに笑う。それから指の関節を鳴らすと「もっかい削いでやろーか?」と保見の顔を覗き込んだ。重光にも音が聞こえるくらい激しく歯噛みした保見は一旦腕の異形化を解くと、その手で服のポケットを弄った。出てきたラムネ大の錠剤を口の中に放り込み、噛み砕いた。やばそう、と及び腰になったいつひとは対照的に、重光は嬉しそうに舌なめずりをした。殴りがいはあるだけ良い。
 保見は短いうめき声を上げて、体を丸める。隙だらけだが、重光は余裕の態度で様子を見るのみ。薄い膜が伸びるような小さな破裂音が続けて聞こえたかと思うと、保見の上半身は筋肉で膨張した。腕などは重光の腰ほどもありそうなくらいの太さだ。肩周りの筋肉も隆起し、首は筋肉で埋まってしまっている。巨大な身体の上に頭がちょこんと乗っかっていた。保見の変身を目の当たりにするのはこれで三回目になるが、今回が一番異様だ。
 しかし反面、下半身は酷く細い。鍛え方を間違い続けたボディビルダーのようである。保見のイメージが具現化されているのだろう、肌は妙に黒光りしていた。
「うっわ、だせー」
 重光は更に異形じみた姿に成り果てた保見に嘲笑じみた視線を送り、口に手を当てて吹き出した。「ゴキブリじゃん」
「やめてよ! もうそれにしか見えなくなる!」
 赤い顔でぷるぷると小刻みに震えながらいつひが言う。明確に敵意を示されているのにちっとも緊張感がないいつひが保見を舐めているのは明白だった。ビキビキと保見の身体中に筋が浮き出たが、きっと怒りによるものだろう。
 短い衝撃音と床に手跡を残し、保見の姿がいつひの視界から消えた。反射的に顔を上に向けたいつひは自分に向けて急降下してくる巨大なゴキ、否、保見の姿を捉えた。
「キモ……ッ」
 顔を限界まで引き攣らせたいつひが悲鳴を上げる。目を瞑ったいつひの髪がふわりと揺れた。重光が保見を蹴り飛ばしたために起こった風圧のせいだ。踊り場の床に叩きつけられた保見は、しかし瞬時に起き上がった。その頭を重光が踏みつける。一旦沈んだ保見の身体だが、しかし重光の踏みつけに反発してきた。ぎしぎしと軋む音が聞こえてきそうだ。楽しそうに笑った重光は容赦なく踏みつける力を強めた。異能で強化した力を振るう星憑きが異能を使わぬ人間に蹂躙されるなど、これ以上無い娯楽だ。
 にや、と笑った重光の眼の前に髭を蓄えた老け顔の巨漢が二階の向こうから現れた。
「抜里くんだ」
 いつひが現れた男を指差す。抜里は今日も堂々たる態度で宙に浮いている。屋内なので二十センチメートル程度の高さに抑えているようだ。シュールである。腕を組んだ抜里は、宙に浮いたまま水平方向に移動し、重光のすぐ近くまでやって来た。保見を踏みつけたままの重光は「あ?」と眉を寄せる。すーっと音もなく重光のすぐそばまで接近した抜里は重光の肩に触れた。途端、重光の身体が抜里と同じように浮き上がる。抜里は重光を浮かせるとすぐに距離を取った。「千切られては敵わんからな」
 重光による圧力が無くなった保見が弾けるように起き上がる。しかし、重光は浮遊させられた場から移動することが出来なくなっていた。足は動く。踏み出せる、が、足は浮かされた地点に戻ってきてしまうため、位置は変わらない。
「はぁ?」
 面倒くさそうに声を上げた重光に向けて、保見が固く握りしめた拳を振りかぶる。檻の中も同然の重光にフェイントもスピードも必要ない。要るのは破壊力、それだけだ。
 腰を溜め、全身を発条にして、放つ。もはや暴威の塊と言っていい右ストレートは重光の身体目掛けて振り抜かれる。
 そうして保見の拳は、否、腕は崩壊した。
 重光は回避するでもなく、防御するでもなく、自身も殴るという選択肢をノータイムで選んだ。ぶつかった拳同士は重く鈍い音を立てる。そのまま力比べに持ち込まれることもなく、まるで腕の中から衝撃波を受けたかのように保見の腕はボロボロになった。どこか装甲じみた黒光りする腕はもう見る影もない。またも地に崩れ落ちた保見の腕は、無効化された能力の例に従って砂のようにさらさらと空気に混じり消える。異形の面をした保見は、人間らしく唖然として立ち竦むしか出来ずにいた。
「貴様、一体何だ?」
 尋ねる声は抜里のものだ。困惑、不安、畏怖。そんな感情が混ぜっ返ったような声だが、重光には聞き慣れた声色だ。
「武藤重光だけど」
 当然のように返せば抜里は言葉を詰まらせる。何なのだ、この男は。強化系か、はたまた念動力系統の能力を持っているのか。
「一体何の能力を──」
「使ってねーよ。お前らなんざに使ってやる価値もね~」
 いかにも面倒そうに吐き捨てるように言われ、抜里は今度こそ言葉を失った。保見の異形化した腕がどんな怪力であるかを抜里は実際に体験しているし、その腕がコンクリート製の壁をぶち抜く瞬間を目の当たりにしている。
 その剛腕が、能力を使っていない素手に捩じ伏せられてしまうだなんて信じられなかった。
 今は抜里の能力下にあるが、もうじき効果が切れてしまう。浮かせ続けるには触れなくてはならない。しかし、近付いたら最後、あの恐ろしい拳が抜里の身体にり込むのだ。考えただけで吐き気がした。
「どうしたの、抜里〜」
 気の抜けた声。溜まり場のある二階の部屋から抜里の帰りが遅いのを気にした家山が下の様子を窺いに来ていた。
「え、わ、まじ」
 現場を見た家山は慌てたように短い声を数回こぼしたあと、引っ込んでしまった。抜里は胸を撫で下ろす。このまま逃げてくれ。そう心の中で願い、抜里は薄笑いを浮かべている重光と真正面から対峙した。
「お、」
 浮遊を解除した瞬間が、抜里に与えられたチャンスだ。ほとんど見た目のためだが、伊達に鍛えていない身体はその辺の男子高校生に比べて格段に威力のある右ストレートを放つ。重光は反応出来ずに、崩れた体勢のまま抜里の拳を食らった。
 拳が肉を打つ音と確かな手応え。打ち抜く前に浮遊状態を付与しようとした抜里が見たのは、躑躅色の瞳。全身を怖気が襲うのと同時、抜里は敗北を悟った。
 打ち抜く前に腰が抜けてしまった抜里の腕を雑に払い、着地した重光はつまらなさそうに言い放つ。
「二点〜。ちなみに温情の二点だから実質零点」
 言い終わるや否や、重光は腕だけで抜里を薙ぎ払った。全くやる気のない攻撃だが、抜里には十分すぎる威力である。二階の壁に叩きつけられた抜里は短いうめき声を最後に動かなくなった。
「あー、つまんね。ただ浮いてるだけのやつに見かけ倒し。つーかさっき何かいたな」
 すっかり異能が解除された保見の身体を踏みつけながら、気だるげに零す重光だったが、ふと抜里を殴る前に見た光景を思い出し、表情を僅かに綻ばせた。
「イッヒー、行こーぜ」
 保見のそばにしゃがみ込んで観察をしていたいつひに声をかけ、重光は嬉々と階段を駆け上がる。
「待ってよお」
 立ち上がったいつひが追いかけてくるのを一応待った重光の足元で「行かせぬ」と低い声が響いた。声の方に視線を落とせば、抜里が鬼の形相で重光を見上げていた。その手は重光の足首を掴んでいる。
「ふーん」重光は腰を下ろして抜里の顔をしげしげと覗き込む。値踏みするような仕草のあと、「立ってみろよ。したらちょっと相手してやる」と宣った。
「謎理論」
 追いついたいつひがぼそりと零す。そんな指摘など微塵も気にしない重光は笑顔で立ち上がると抜里の手を振り払った。無数の矢を受けて尚、主を護るため立ち塞がった豪傑を思わせる表情をして、抜里はゆっくりと立ち上がる。大変満足とでも言うように頷いた重光は「おっし、じゃあ来い。武藤先生せんせの特別補習だ」と抜里に伸ばした手の指先をくいくいと動かした。
 抜里は凄絶な表情で重光を見据えた後、たっぷり空気を吸うと気合の声とともに重光に躍りかかる。覚悟を決めた抜里の気迫に、いつひは首を竦ませた。ただし、抜里と対峙している重光はそれを薄ら笑いで受け止めたが。避けもせず、防御もせず。的となってあげた重光の頬に抜里の拳は確かに入った。満身創痍の身体から繰り出される攻撃とはとても思えないものであったが、「やっぱ零点」重光の採点は非常に厳しい。
「家山には指一本触れささん……!」
 もはや気力だけで立っている抜里は二発目を放たんと腕を引き、腰を落とす。だが、その拳が重光に届くことはなかった。小気味いい乾いた音がして、抜里の顎が、脳がぐわんと揺れる。重光が放ったのはビンタである。
「家山って誰だよ」
 訝しげに眉を寄せて零す重光の前で、脳を揺らされた抜里がどうと倒れた。
「家山さんは、カラス操ってたふわふわ系の子だよ。保見くんに与してたからやっちゃおやっちゃお」
「誰だ……」
 いつひの説明を受けてもちっとも人物像がはっきりしない。重光が首を傾げていると、廊下の奥からカサカサと何かが擦れるような音がする。その音は瞬く間に半ば地響きのような大きさになり、見れば床と壁、天井を埋め尽くす黒い影が物凄い勢いでこちらに迫ってきているではないか。いつひが声にならない悲鳴をあげて飛び上がる。黒い影に見えていたのは、地を這う虫と鼠の大群だったのだ。大きいものから小さいものまで、夥しい数の虫が重光といつひに押し寄せる。飲食店も入る雑居ビルだけあって、不快害虫の代名詞であるゴキブリたちが大群のほとんどを占めていた。
「うえ、グロ」
 さすがに顔を引き攣らせた重光は、即座に一時撤退を選択する。いつひを小脇に抱え、階段を一気に飛び降りた。
「やだやだやだ〜! 何今の!? あんなのトラウマになるって!」
「うるせーな!」
 珍しく重光は騒ぐいつひに一喝する。極端に的が小さい上にあれだけの数。正直徒手空拳では分が悪い。
「イッヒー殺虫スプレーとか持ってねえのかよ! 前持ってたろ!」
 性別のことでしつこくいつひに絡んできた人間の顔面に、殺虫スプレーを吹きかけていたのを見た記憶があった重光が叫ぶように聞けば、
「武藤くんとつるむようになってからは持ち歩くのやめた! っていつの話なのさ!」
 とやはり叫び声が返ってくる。
 怒鳴り合いながら二人は出入口に辿り着いた。いつひを外に放り出した重光は自身も続こうとして、大事なことをすっかり失念していたことに気付く。この異常事態は九割九分星憑きの能力に依るもの。となればすることは一つだったのだ。出入り口の扉を閉め、踵を返した重光は首をごきりと音を立てて回した。
 能力使役者をぶん殴る。
 一旦逃げてしまったせいで随分と時間を無駄にしてしまった。その分、上乗せでぶん殴ってやる、と心に決めた重光は虫と鼠の大群に猛然と突っ込んでいく。重光の背中にいつひが何か大声で叫んでいたが、彼に届くことはなかった。
 踏み潰し、振り払う。潰れた躯から漏れ出た体液で足元が滑って仕方ない。大群に突っ込んでから数歩。あっという間に囲まれた重光は払っても潰しても全身を覆うように這い上がってくる小さな生き物たちに為す術を持たなかった。特に小さな虫なんかは口腔内、鼻腔、眼孔、外耳道から入って来ようとしている。身体のあちこちで牙を立てられている。くそったれ。気色悪い。頭に浮かぶのはどうしようもない罵倒の言葉ばかりだ。
 いつひが遠くに逃げていることを願った重光は目を閉じ、動きを止めた。
 直後、出入り口の方から扉がぶち抜かれる音。反射的に振り向いた重光が感じたのは、炙られるような熱だった。