2-9

『学園祭お疲れ様会参加者はここに名前書いて』
 教室の後ろに貼られた裏白プリントに黒マーカーで書き殴られた文字。体育祭の後片付けのさなか、なんともアナログな方法で参加者が募られていた。
「桜庭行くだろ。名前書いとくぞ」
「あー……」
 友人に一旦生返事で応えた湊叶だったが、一瞬の逡巡のち「や、今回はやめとく」と断りを入れた。
 そうして彼が向かったのは、生徒会室だ。光汰に用がある。ノックの返答を聞いてすぐ、湊叶は勢いよく扉を開けた。
「会長、賀川追っかけるんすよね」
 湊叶の言葉に光汰は一瞬驚いたように目を見開いてから、ふわりと笑顔を浮かべた。
「湊叶も気になったかい?」
「そりゃ、お祭り騒ぎが好きそうなやつが全然出しゃばらなかったら気になりますよ。……アテはあるんすか?」
「それが、全く」
 悪戯がバレた子どもの如き表情で肩を竦めながら、光汰は答える。その答えをすっかり予想していた湊叶は「たぶん、保見のとこっすよ。保見が賀川の家は宗教してるとか何とか言ったせいで、あいつクラスで浮きまくってるみたいなんで」と保見がよく仲間とたむろしているらしい雑居ビルのマップ情報を表示させたスマホ画面を光汰に見せた。こういうとき中学の悪友ネットワークは役に立つ。
「さすが湊叶だ」
「会長ってそういうとこありますよね」
 拗ねているのか照れているのか。微妙な目で光汰に視線を遣った湊叶は直前の仕草を取り繕うように「で、今から行くんすか」とぶっきらぼうに訊ねる。
「お、なんか楽しそーなことしてる」
 湊叶の問いかけに光汰が答えようと口を開いたのとほとんど同時。からからという笑い声と共に湊叶の傍に通が現れた。湊叶が舌打ちしながら腕だけで殴りかかるも、ヒット寸前で光汰の近くに移動されて避けられる。
「んだよ、桜庭ぁ。俺も手伝ってやろうって言ってんのに。それどこ?」
 湊叶が光汰に見せていた画面をしげしげと覗き込んだ通は「ふーん、駅前のね」と頷くや否や、光汰に触れて能力を使った。忽ち二人の姿は掻き消える。残された湊叶は「……あいつ……!」と音が鳴るほど歯噛みする。
「ごめんて」
 再び湊叶の目の前に現れた通は非常に軽い謝罪の言葉とともに湊叶の手を取った。湊叶の般若のような顔を見て反射的に謝っただけで、十中八九なぜ謝ったすら分かっていないはずの通の言葉は、湊叶を余計に苛つかせた。
 
 微かな耳鳴りと浮遊感のあと、軽い吐き気。顔を歪め、口元に手をやった湊叶の目に飛び込んできたのは先ほど光汰に示した駅前の雑居ビル。若干の不快感を覚えているのは先に連れられてきた光汰も同じようで、少し顔色が悪いように見える。
「よーし、賀川探そうぜ!」
 一人ピンピンしている通が調子の良い声を上げながら拳を突き上げた。
「……お前一回マジで洒落にならんくらいの痛い目に遭ってくれ」
「そういうの色んな人から言われんだけど、なんでだろーなぁ?」
 にやにやと微笑を浮かべ、わざとらしい口調で通。反応を返すことすら鬱陶しく、湊叶は浅いため息だけを吐いて、雑居ビルへと視線を移す。そして、異変に気がついた。騒然とした気配が出入り口の方へ一気に近付いて来る。腰を下げ、重心を低くする臨戦態勢を取った湊叶の耳に聞こえてくるのは聞き覚えのある喚き声。
「賀川!」
 答え合わせは光汰がしてくれた。通が「ビンゴじゃーん」とふざけた調子で言う。このそれにしてもただならぬ雰囲気だ、と湊叶が先んじて出入り口に駆け寄ったところで扉が乱暴に開き、中から人が転げ出てきた。小柄な体に派手パーカー。賀川いつひその人に間違いなかった。しかし扉を開けた人物はすぐに扉を閉めて中に引っ込んでしまった。一瞬の間があり、いつひの「武藤くん!?」という悲痛な声。
「お、なんかピンチな感じ?」
 わざわざ近くに移動して愉しげに言う通を小突き、湊叶は両開きの扉を開けた。静かな恐怖を振り払うように、堂々と左右とも開け放ち──、湊叶は後悔した。いつひが再び重光の名前を叫ぶ。湊叶の目の前に広がっていた光景は、想像以上にグロテスクなものだった。今まで見たことがない量の虫と鼠、それから人らしき影に群がるそれら。モンスターパニック映画の世界に迷い込んでしまったのかと現実逃避したくなるような現場だった。
「ッ、」
 口元まで上ってきた悲鳴を何とか飲み下し、湊叶は両腕に異能の炎を灯す。いつもは拳を覆うくらいの火力だが、今回は上腕を覆うくらいの強い炎だ。そうして人影──恐らく重光──の元へと、虫どもを焼き払いながら進む。ほとんど無我夢中だ。焦げ臭い匂いが鼻を突く。突然発生した炎に、虫と鼠の大群は四方八方、建物の隅や上階へと逃げ出した。その勢いは音が聞こえるほどであった。不愉快な、乾いた音。
 人影に纏わりついていた虫や鼠もほとんど逃げ出し、残されたのはとんでもなく不機嫌そうな重光一人だった。湊叶が「大丈夫かよ」と声をかけると、鬼も逃げ出しそうな重光の目がこちらを向いた。その口から虫の足が吐き出される。
「……最悪。人生史上最悪」
 吐き出した虫の足を忌々しげに踏み躙る。危機が去ってしまえば、あの武藤重光が悲惨な目に遭っている現場が見られたことに優越感を感じ始めていたのだが、この感情を重光の前で出したら最期だと悟った湊叶は生唾を飲み込んだ。
「武藤くん!」
 いつひがぴょんと跳ねるように飛び込んできた。光汰も「良かった、無事そうで」と駆け寄ってくる。いつひのお陰で随分穏やかになった重光の表情は、光汰の登場で再び阿修羅の如き形相に戻った。
「何で生徒会のお前らが居るんだよ。学校ガッコで片付けとか掃除とか片付けしてろ」
「居なかったらお前、危なかったろーが」
 助けられたというのに居丈高な態度の重光に黙っていられなかった湊叶が眉を寄せて言う。
「はー? ちょうど今から反撃するとこだったんですけどぉ」
「どーだか」
 肩を竦ませて湊叶は呆れ顔をする。重光が「おい、そこ直れ」と正面の床を指差した。
「もう! 今そんなことしてる場合じゃないんですけど! 先に家山ちゃんの方を何とかしないと──」
 本音なのか、重光の注意を逸らす為なのか。いつひが喚くような調子で言い、重光を両手でぽかぽかと叩いた。すると重光は途端に湊叶と光汰から興味を失くし、階段を駆け上がる。
「まだ居るといいけど……」
 その背を見送ったいつひがぼそりと零す。その横で湊叶がふらりとよろめき、床に膝をついた。しゃがみこんだ光汰が湊叶を支えた。
「すいません、気が抜けたら急に身体が……」
 全身を襲う倦怠感。あれだけの火力の炎を使ったのは初めてだった。酷く消耗したようで、今にも瞼を閉じてしまいそうだ。光汰の体温を感じたこともあり、湊叶は気絶するように寝入ってしまった。
「そういやさっき由瀬くん居たよね。由瀬くんに休める場所まで連れてってもらったら──」
 いつひが言いながら通の姿を探す。しかし、見つからない。そもそも通の性格なら先ほどの重光を放っておくはずがないから、虫と鼠の大群を目にして何処かに逃げたのかもしれない。
「俺が背負う。もし武藤が本当に危なそうなときだけは俺が向かうから、そのときは湊叶を頼む」
「羽澄くんのくせに、武藤くんのことちょっと分かってきてるじゃん」
「俺だって武藤の気持ちは想像出来るさ。賀川は、大丈夫かい?」
 湊叶を背中におぶった光汰の質問にいつひは答えず、「羽澄くんは止めるかなって思ったから意外」と試すような視線を返した。
「保見への報復をかい? それなら少し便乗しようと思っている。勿論、やり過ぎたら止めるけれど。保見からも例の赤い花のイメージを観測したと聞いてね。これは少し話を聞いておくべきだと判断した」
 いつひの挑発めいた視線も意に介さず、光汰は答えた。
「それに保見にどんな事情があるにしても、大事な龍行の生徒である賀川を傷つけたことには変わりはない。俺も賀川や武藤ほどではないけれど、怒っているんだよ」
「……意識があるかは微妙だけど、二階に保見くんと抜里くんがいるよ」
「ふむ、なら話を聞きに向かおうか」
 背中で寝息を立て始めた湊叶をちらりと見た光汰は、いつひの指差す階段へと足を向けた。
 
 家山を探して、重光は棚橋ビルディング内を駆けていた。見つけた扉は片っ端から開けて中を確認する。ほとんど無人だったが偶に柄の悪そうな人間が溜まっており、喧嘩を売られたので最安値で買ってやった。それを繰り返し、重光はとうとう最上階に辿り着こうとしていた。
 折角高所にいるのだから、足一本持って逆さ吊りなんかをしてやってもいいな、などと考えながら重光は家山の姿を探す。綿飴みたいな見た目の奴だった。
 廊下の最奥。非常用、と赤色で書かれた標識の下、縦長の小窓。その窓枠に家山は腰掛けていた。ニヒルに笑った家山は「あんたのせいだよ」と言い残し、開け放った窓から身を投じる。
「おいこら」
 舌打ちとともに重光は駆けた。すでに家山の姿は消えている。逃走する手段があるのか、自棄になって落ちたのか。いずれにせよ、思いついた上空逆さ吊りプランが水の泡になることは許せない。
 重光が窓の元に辿り着いた瞬間だった、家山が戻ってきた・・・・・。目をまん丸にした家山は、下から打ち上がってきたのだ。家山自身の意思ではないようである。四階部分を通り越し、最高点に到達した家山は下向きに加速した。重光は片手を伸ばしてその身体を掴むと、建物内に引きずり込んだ。床に投げ捨て足で押さえつける。それから重光は身を乗り出して地上を覗き込んだ。ゴミ捨て場となっているそこに、人影が一つあった。フードを深く被り、人相は不明だが体つきから青年のように見える。
「投げたのお前!?」
 大声で尋ねるも、聞こえていないのか無視されたのか、青年は重光の方を一顧だにせず大通りの方へ行ってしまった。その背中に舌打ちを送った重光は彼から逃れようと必死になっている家山の足首を掴んで持ち上げる。じたばたともがく家山を見下ろし、重光は笑った。
 
 ◆◆
 
 保見と抜里はやはり階段上で意識を失ったままであった。いつひが保見に駆け寄るとズボンのポケットを探る。出て来たのはラムネ大の錠剤が二つ。
「これ、保見くんがゴキみたいになる直前に飲んでたやつ」
「五期?」
 光汰が首を傾げながら差し出されたいつひの手のひらに乗る白い錠剤を見た。刻印などはない。
「黒いアイツだよ。たぶん、これを飲むことで強化されるんだろうけど」
「武藤の前ではいまいち効果が分からなかった、か」
 いつひが頷く。ほとんど同時に上階で物々しい音が響く。まるで重光にもこの会話が聞こえているみたいだな、といつひは舌を巻いた。
「……使うつもりなのかい?」
 ごく自然に錠剤を自身の服のポケットに入れるいつひに光汰が尋ねる。
「ボクは星憑きじゃないから使うつもりないよ。ただ、保見くんが持ってるよりはマシかなあって」
「なるほど。俺としては処分するか、総能研などに渡したほうがいいと思うが……」
「あんなとこ信用できないよ。武藤くんの家に押しかけたんだよ、異能濫用疑惑だって」
 答えながらいつひは頬を膨らませる。光汰は明らかな肯定はしなかったものの、いつひの言葉を正面から否定することはせず、ただ困ったように眉を下げた。
「薬を取られたことに気がついた保見が賀川を狙わないといいんだが」
 心配する光汰にいつひは乾いた笑いを返した。「武藤くんがいるんだよ?」
 次に二人は抜里の元へ向かう。抜里の身に着けている物をくまなくチェックしたが、保見が持っていた薬のようなものは見当たらなかった。持っていれば重光と対峙したときに使っただろうから、当然のこととも言えた。
 抜里の持ち物検査が特に収穫もなく終了したところで上階の断続的な騒ぎも落ち着いた。重光も目的を達成したのだろう。さすが武藤くん、仕事が早い。嬉しそうにほくそ笑んだいつひはスマホを取り出し、重光にメッセージを送った。
「まーじでつまらん」
 いつひに呼ばれた重光は家山を引き摺りながら下りてきた。痛々しい殴打の痕に光汰は顔を曇らせる。それに気付いた重光が「自業自得だろ」と光汰を睨むと「武藤も言い訳をするんだな」と意外そうな顔と声を返された。
「あー、これはもう駄目。こいつ殴らんと無理」
 飽きた玩具を捨てるが如く家山を打ち捨てた重光は光汰に大股で近づく。家山は抜里に並ぶように転がった。
「殴って気が済むなら、好きにすると良い」
 差し出すように頬を重光に向ける光汰。額に浮き出た血管を痙攣させた重光は光汰の頬をぶん殴った。ばきゃ、ともぼき、ともつかぬ嫌な音がして、光汰の頭が勢いよく半回転する。いつひが「ひゃっ」と短い悲鳴を上げた。しかし光汰の体幹は微塵も揺るいでいない。軽く頭を振って重光に向き直る。ちっとも怯んでいない、その目。
「お前ホント嫌」
「勝てないからかい?」
 瞬間、光汰の顎に重光の足裏が思い切り入る。昏倒必至の一撃を、やはり光汰は受けきってみせるのだ。
「そーだよ」
「武藤のそういう素直なところ、たいへんな美点だと思うぞ」
 重光に微笑みかけた光汰だったが、ふと視線をその奥に遣る。怪訝そうに彼の視線を追った重光は、家山の服のポケットというポケットをひっくり返す妖怪と化しているいつひの姿を捉えた。
「あ!」
 重光からの呆れた視線に気付いていないいつひは何か見つけたのか、突然大声を上げた。同時に掲げたのはジッパー付き袋に入った例の錠剤と思しきもの。
「家山ちゃんは持ってたんだ。あ、もう一個袋ある」
 しゃがみこんでいるいつひの足元にひらりと落ちたのは錠剤が入っていた袋と同一の袋だった。
「あの虫とか鼠とか、このビルに棲んでたやつ総動員感あったけど、この薬で強化した能力だったのかな」
「は? そんなモンあんのか」
「いや武藤くん眼の前で見てるでしょ。保見くんで」
 三秒ほど固まった重光は「あー……」と微妙な反応を見せた。これは分かったふりをしているだけだな、といつひは話を切り上げることにした。
「もしかして、一つは抜里のものだったのかもしれないな」
 顎をさすりながら光汰が言う。確かに、保見一派は異能強化の薬を皆持っていたと考える方が自然だ。
 となると、保見の仲間であるかは不明だが、事情を知っている八草千景と名乗った人物の動向が気になる。重光に八草らしき人間が居なかったか訊ねたが、答えはノーだった。
「見つけ次第そいつもボコボコのボコにしてやるけどな」
 残念そうないつひに重光がふん、と鼻を鳴らした。
「あ! この人たちに安土ちゃんのこと知らないか聞こうと思ってたんだった」
「今更〜。起こす?」
 重光が抜里の頭を足蹴にしながら聞いた。光汰が「こら、やめなさい」と重光の肩を叩く。その手を振り払った重光の足首が、抜里の手によってがっしりと掴まれた。
「おっ」
 語尾を弾ませた重光の目が途端に楽しそうに煌めく。湊叶然り、懲りないやつは大好物だ。いつひが「すごいタフだなあ」と口に手を当てて驚いた。抜里の血走った目がいつひを向く。
「ねえねえ、抜里くん。コサージュとか髪飾り、なんでも良いんだけど、赤い花を身に着けたひとって見覚えある?」
 抜里の視線にもちっとも動じないいつひはしゃがみ込んで尋ねた。凄絶な表情でいつひを睨み続けるも、抜里は沈黙を続ける。
「うーん、仇の質問に素直に答えてくれるはずないか」
「イッヒーが訊いてんだろ、答えろや」
 困ったように首を横に傾げるいつひと掴まれていない方の足で抜里の頭を踏み躙る重光。良い警官と悪い警官、そんな用語が光汰の頭に浮かぶも、すぐに違うな、と頭を振った。
「その人からもらった薬を使ったひとは、悉く失踪しちゃってるらしいから、気をつけたほうがいいんじゃないかなって。……家山ちゃん、使ったんじゃないの」
 手元に家山と保見が持っていた薬をちらつかせたいつひら、一か八か、鎌をかけた。光汰が驚いた顔をしたのを視界の端に捉え、頼むから余計なことを口走ってくれるなよ、と念じる。
「……私たちは、一杯食わされたということか」
 独白のような呟きに、いつひは目を瞬かせた。いつひが何も言わないでいると、抜里は話を続けた。
「先程の問いに答えよう。その薬の譲渡主は赤い花の髪飾りをした、女子おなごだ」
 この際言葉遣いは無視をする。いつひは雄叫びを上げ、ガッツポーズをするのを何とか堪え切った。内心をおくびにも出すことなく、いかにもしかつめらしい顔で「やっぱり」と重々しい口調で頷く。
「それはもう、敵に回したくないと願うほど圧倒的な力を持った星憑きだった。正直、私は関わりたくもなかったが、保見が完全に心を奪われてしまっていた」
 重光が「圧倒的な力」という文に反応し、嬉しそうに顔を綻ばせる。抜里は深く息を吐き、それから顔をしかめた。内臓をいくらか損傷しているのだろうか。しかし話を止めることはなかった。いつひをしかと見つめる。
「……貴様を地獄に落とすために、保見には力が必要だったのだ」
 これ以上は抜里の話を聞けなかった。重光が抜里の身体を踏み潰したからだ。きゅう、と音を立てた抜里は今度こそ暫くは意識を取り戻しそうになかった。
 
 ◆◆
 
 少し考える時間が欲しい。
 保見が重光に敗けたと慌てた様子でアジトに飛び込んで来た家山を見て、八草はこっそり逃げる判断をした。無論、どんな暴れん坊だったとしても『穴』に閉じ込めて数日もすれば大人しくなるだろう。しかし、相手は保見を下す身体能力を持つ人間である。一筋縄ではいかないだろうし、そもそも八草がリスクを取ってまで重光と対立する理由もなかった。うまく行ったとして、重光がいなくなれば真っ先に疑われるのは自分だろうし、そうすれば光汰がやってくるだろうしで八草にとってメリットが一切ない。
 本当は先日のように保見を救出してから逃げたかったが、それをするには状況が悪すぎる。さすがに命までは取られないだろうから、今はごめん、と心の中で保見に謝罪し、八草は窓からひらりと外に飛び出した。アスファルトの上に両足で着地する。じんと痺れるような痛みが膝のあたりまで登ってきたが、しばらくその場で耐えると何とか歩けるくらいには回復した。ビルの中では狂騒が聞こえた。家山が闘っているのだろう。あれでいて抜里のことは大事に思っていたようだから。
「あ、文化祭に押しかけてきた人だ」
 人一人がやっと通れるような路地を歩いていると、進路を塞ぐようにして少年が立っていた。半袖パーカーに下は龍行高校の夏服。こちらに見覚えはないが、龍行の生徒ならば八草のことを知っているだろう。
「そこ、どいてほしいんだけど」
 八草が睨みつけると、少年は「ああ、ごめん」と軽い謝罪をしながら体を横に向けた。何だか嫌な態度をとる奴だな、と睥睨を続けながら開けさせた通路を肩を怒らせ、肘を張って通る。当然、肘の先が少年の脇腹を直撃した。
「いっ」
 短い声を上げながら少年はその場に蹲る。八草はそれに一瞥をくれてやると、声をかけることもせず小走りでその場から離れた。
「……たいなあ、もう」
 悪態が聞こえたかと思うと、八草は後方にすっ転んでいた。後頭部を地面にぶつける前に見たのは少年の冷え切った瞳。左右で色が違う珍しい瞳だった。一瞬しか確認していないはずなのに、はっきりと分かった。
 自身を襲う鈍い痛みに、八草は反射的に能力を展開していた。幸いにも影の方向は少年を向いている。倒れたまま両手を高く上げ、影の面積を広げる。刹那、少年の立つ地面──八草の影が広がっている箇所──がぱっくりと口を開けた。目を丸くした少年は抵抗も許されず影の中に落ちていく。少年が上に伸ばした手の指先まですっかり呑み込んだのを確認し、八草は後頭部をさすりながら立ち上がった。しばらくここで反省してもらって██しよう。
 数歩前に進んだと██、額から汗がうっすら滲んでいることに気がつく。どうしたのだろ██。
 視界が霞んだ。歩みを██。██い、何かが██。
 ████。██、██る。
 ██████ィ██
 
 鼻から出血し、眼球を上転させた状態で地面に横たわる八草を見下ろすのは先程呑み込まれたはずの少年だった。八草の意識がなくなったことにより、飲み込まれた地点に戻された少年は「便利だなあ、これ」と呟いた。
「通ー?」
 きょろきょろと辺りを見渡しながら、少年は仲間に呼びかけた。しばらくすると、慌てた様子で痩身の少年が大通りの方から駆けてきた。
「こんな状況で名前呼ぶなよなあ。誰かに見られたらどうすんだよ」
「別に平気でしょ。理不尽な言いがかりに対する正当防衛なんだから」
 こそこそと耳打ちするように言う通に対し、少年は平然とした顔で返す。
「武藤とか……武藤は馬鹿だから別にどーだっていいけど、バレると面倒そうな会長さんも近くに居ンだぜ? ……連れて来い、っつーから連れてきたけど」
「保見一派の一人と武藤の相性が悪そうだったから助っ人いるかな、と思って。こんなところでぐだぐだ油売ってることこそを、通は心配したほうが良いんじゃない?」
「〜〜っ。まだ何するか聞いてないし!」
 通が見てきた展開を見透かしたような物言いと相変わらず飄々とした態度。通が少し赤くなった頬を膨らませて言えば、少年は足元の八草を指さした。
「この子、持って帰っておいて。収容四ね」
「うえー、はい」
 あそこの部屋、嫌な臭いするからなー、と舌を出した通は少年の冷たい視線を避けるようにして八草に近づくと、いつものように能力を使った。
「……通の能力も便利なんだよなあ。けど、実際に使いたいかと言われると違うし……」
 ぶつぶつと独りごちながら、少年は大通りの方へと身を運んだ。